ロバート・カー (初代ロジアン侯爵)
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初代ロジアン伯爵とアン・カー(Anne Kerr、第2代ロジアン伯爵の長女)との長男としてエディンバラシャー、ニューボトルに生まれた[1][2]。その後の1651年から1657年にかけてはスコットランドを離れて、ライデン大学に学んだのち、ソミュール、アンジェ、パリを渡り歩いた[3]。1658年に親族がその相続をめぐって係争中のロクスバラ伯爵位[註釈 1]の優先継承権を主張したが、不成功に終わった[4][5]。また、父のロジアン伯が1661年にロクスバラ伯位の継承権を失うと、従来の儀礼称号(カー卿)の使用をとりやめて、新たにニューボトル卿の称号を用いた[註釈 2][6]。
その後はスコットランド辺境警備任務に従事したほか、第三次英蘭戦争に志願して1673年まで従軍した[3]。1675年に父よりロジアン伯爵を継承した[3][4]。ロバートはやがて健康を害したことから、1679年の秋から翌年の夏までパリやモンペリエで静養した[3]。1686年に枢密顧問官に就任した[1][3]。彼は名誉革命を支持して、スコットランド臨時議会にも自身の議席を保持した[2]。1689年には民事控訴院主席判事に任命されてその死までその地位にあったほか、ウィリアム3世より枢密顧問官に再任されている[3]。翌年の1690年に親族チャールズ・カーよりアンクラム伯爵を継承した[1][3][5][7]。
1692年に国教会総会勅使に就任すると国王と国教会の板挟みとなり、翌年には体調を崩してバースで療養する羽目となった[3]。加えて、1695年には「ロバートを他の伯爵よりも下位の席次として扱うべきか」の議会投票が行われるといった屈辱を味わったが[3]、1701年にロジアン侯爵に叙されてその名誉回復を果たした[1][3][4][7]。また、翌年にはイングランドとの合同交渉委員となったが、1703年に合同を見ぬまま急死した[3][4][5]。爵位は長男ウィリアムが継承した[1][4][7]。
