ロバート・ソーヤー・ハーバート

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ロバート・ソーヤー・ハーバート閣下Hon. Robert Sawyer Herbert1693年1月28日1769年4月25日)は、グレートブリテン王国の政治家。第8代ペンブルック伯爵の次男として生まれ、伯爵家の懐中選挙区であるウィルトン選挙区英語版の代表として46年間庶民院議員を務めたが、議会で一度も発言せず、政府に反対して投票したこともなかった[1]

第8代ペンブルック伯爵トマス・ハーバートと妻マーガレット(1706年11月17日没、ロバート・ソーヤー英語版の娘)の次男として[2]、1693年1月28日に生まれた[3]。1706年に母が死去すると、母方の祖父ソーヤーの遺言状に基づき、ハンプシャーハイクリア城英語版を相続した[3]。ソーヤーは1女しかもうけず、その遺言状で領地をペンブルック伯爵家の次男以下に相続させるとしていた(ただし、1692年にソーヤーが死去した時点ではまだ生まれていなかった)[4]。1709年7月5日、オックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[5]

1722年イギリス総選挙ウィルトン選挙区英語版から出馬して無投票で庶民院議員に当選、以降1727年1734年1741年1747年1754年1761年1768年の総選挙でも無投票で再選した[6][7]。ウィルトンは選挙権が都市自治体の構成員(20人台)に限定されており、地元有力者の影響を受けやすかったため、ペンブルック伯爵家の懐中選挙区になっていた[8]

1723年から1727年まで国王ジョージ1世寝室宮内官英語版、1727年から1737年までアイルランド歳入委員(commissioner of revenue)、1737年から1751年まで下級商務卿(lord of trade、年俸1,000ポンド[9])、1751年から1769年まで王領地監督官英語版を務めた[3]。1751年に下級商務卿を退任したとき、首相ヘンリー・ペラムは政治家ロバート・ニュージェント宛ての手紙で「彼は20年以上ママ商務庁にいたが、実際にいた回数は20回もなかった」と述べた[3]

1750年1月に兄ヘンリー英語版が死去すると、同年3月にその後任としてウィルトシャー統監英語版に就任したが、1756年までに兄の息子ヘンリー英語版に譲って退任した[10]

ハーバートは1768年の総選挙をもって議員を退任したが、46年間にわたる議員生涯で一度も演説せず、与党に反対して投票することもなかった[1]。そのため、1766年11月に第2代ロッキンガム侯爵が作成した議員リストではハーバートを「スイス」(Swiss、どんな政権でも支持する用意があることを意味する)に分類した[1]青木康はこうした姿勢を官職の維持のためだと判断した[11]

1769年4月25日に死去、ハイクリア城は弟の息子ヘンリー(後の初代カーナーヴォン伯爵)が相続した[3]

家族

出典

参考文献

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