ロバート・ソーヤー・ハーバート
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第8代ペンブルック伯爵トマス・ハーバートと妻マーガレット(1706年11月17日没、ロバート・ソーヤーの娘)の次男として[2]、1693年1月28日に生まれた[3]。1706年に母が死去すると、母方の祖父ソーヤーの遺言状に基づき、ハンプシャーのハイクリア城を相続した[3]。ソーヤーは1女しかもうけず、その遺言状で領地をペンブルック伯爵家の次男以下に相続させるとしていた(ただし、1692年にソーヤーが死去した時点ではまだ生まれていなかった)[4]。1709年7月5日、オックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[5]。
1722年イギリス総選挙でウィルトン選挙区から出馬して無投票で庶民院議員に当選、以降1727年、1734年、1741年、1747年、1754年、1761年、1768年の総選挙でも無投票で再選した[6][7]。ウィルトンは選挙権が都市自治体の構成員(20人台)に限定されており、地元有力者の影響を受けやすかったため、ペンブルック伯爵家の懐中選挙区になっていた[8]。
1723年から1727年まで国王ジョージ1世の寝室宮内官、1727年から1737年までアイルランド歳入委員(commissioner of revenue)、1737年から1751年まで下級商務卿(lord of trade、年俸1,000ポンド[9])、1751年から1769年まで王領地監督官を務めた[3]。1751年に下級商務卿を退任したとき、首相ヘンリー・ペラムは政治家ロバート・ニュージェント宛ての手紙で「彼は20年以上〔ママ〕商務庁にいたが、実際にいた回数は20回もなかった」と述べた[3]。
1750年1月に兄ヘンリーが死去すると、同年3月にその後任としてウィルトシャー統監に就任したが、1756年までに兄の息子ヘンリーに譲って退任した[10]。
ハーバートは1768年の総選挙をもって議員を退任したが、46年間にわたる議員生涯で一度も演説せず、与党に反対して投票することもなかった[1]。そのため、1766年11月に第2代ロッキンガム侯爵が作成した議員リストではハーバートを「スイス」(Swiss、どんな政権でも支持する用意があることを意味する)に分類した[1]。青木康はこうした姿勢を官職の維持のためだと判断した[11]。