エディンバラで生まれた。父親のアーチボールド・バーンはスコットランドのハミルトン出身の写真家であった。家族はエディンバラの中心にあるカールトン・ヒルの、かつて画家のデイビット・オクタウィウス・ヒル(David Octavius Hill: 1802-1870)のスタジオであった邸にしばらく住んだ。エディンバラの学校で学んだ後[1]、グラスゴーに移り、グラスゴー美術学校の夜間クラスに入学した。画家のエドワード・アーサー・ウォルトン(1860-1922)に勧められて画家の道に進むことになり[2]、ロンドンに移り、ウェストミンスター美術学校(Westminster School of Art)のフレデリック・ブラウンに学んだ。
1889年にパリに移り、その後2年間、私立の美術学校のアカデミー・ドレクリューズで、オーギュスト・ジョゼフ・ドレクリューズやポール=ルイ・ドゥランス、エドワード・エルツに学んだ。
スコットランドで活動し、1901年スコットランド芸術家協会(Society of Scottish Artists)の会長に選ばれた。1920年にはモロッコに旅した。1924年に再びスコットランド芸術家協会の会長に選ばれ、1927年までその仕事を続けた[3]。
パトリック・ゲデスによるスコットランドの近代都市計画の理念やウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動の信奉者となり様々な工芸の分野でも活躍した。
1908年から1919年までエディンバラ・カレッジ・オブ・アート(Edinburgh College of Art)で絵画を教えた[4]。
画家としてはアール・ヌーボーのスタイルの絵画や人物画を描いた。