Wikiwand AI

ロベルト・カーン

From Wikipedia, the free encyclopedia

ロベルト・カーン(Robert Kahn 1865年7月21日 - 1951年5月29日)は、ドイツ作曲家ピアニスト、音楽教師。

概要 ロベルト・カーンRobert Kahn, 基本情報 ...
ロベルト・カーン
Robert Kahn
基本情報
生誕 1865年7月21日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国 マンハイム
死没 (1951-05-29) 1951年5月29日(85歳没)
イングランドの旗 イングランド ビッデンデン英語版
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト作曲家
閉じる

生涯

カーンはマンハイムに生まれた。父はベルンハルト・カーン、母はエマ・エベルシュタットであり、カーンは次男であった。7人いたきょうだいのうちオットー・ヘルマン・カーン英語版は裕福な資本家となり、その息子のロジャー・ウォルフェ・カーン英語版はジャズ・ミュージシャン、作曲家、飛行家として成功を収めた。カーンの両親はユダヤ系ドイツ人の銀行家、商人として名高い家系の出身であった。カーンは1882年にベルリン王立音楽演劇アカデミーに入学し、3年間同校で学んだ。1885年から1886年にかけてはミュンヘンにおいてヨーゼフ・ラインベルガーの薫陶を受けた。翌年ウィーンを訪れたカーンはヨハネス・ブラームスに出会って知遇を得ることになり、弟子に取ってもよいとの提案を受けた[1]。気後れしたカーンはこの申し出を断ってしまうものの、ブラームスの音楽は彼のキャリアを通じて作曲家としての作風に深い影響を与えることになる[2]

兵役を終えたカーンは1890年までベルリンでフリーランスの作曲家として活動していた。続く3年間はライプツィヒの国立劇場でコレペティートルとして雇われる。1894年には母校で作曲を教える講師として任用され、彼の門下からは20世紀でも最も知られた音楽家が輩出していくことになる。ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインヴィルヘルム・ケンプ、指揮者のフェルディナント・ライトナー、作曲家のセオドア・ホランドニコス・スカルコッタスギュンター・ラファエル、ヴァイオリニストのカール・クリングラーらが彼の門人である。

ベルリンで作曲活動に精を出す傍ら、カーンは室内楽奏者、また歌曲の伴奏者として当代一流の独奏者、歌手と共演した。共演者はヨーゼフ・ヨアヒムリヒャルト・ミュールフェルトアドルフ・ブッシュイローナ・ドゥリゴエミー・デスティンといった面々にわたる。

1916年、カーンはプロイセン芸術アカデミーに選出されて会員を務めたが、1934年にナチスより彼のユダヤの出自を理由に辞任の命令が下った。また、ナチスは彼の音楽の出版、演奏も禁止した。このため、1939年に73歳になっていたカーンは妻のカタリーナを伴ってドイツを離れてイングランドへ赴き、晩年を無名の状態ながらも旺盛に作曲をしながら過ごした。彼はサリーアシュテッド英語版ケントビッデンデン英語版へと移り、その地で没した。カーンと彼の音楽は第二次世界大戦以降忘却されていたが、ナチスにより「退廃音楽」の烙印を押されて迫害されていた他の多くの作曲家の場合と同様、音楽家と聴衆による再発見が進んでいる[3]

作品

カーンは室内楽に膨大な作品を遺しており、それらはメンデルスゾーンシューマン、ブラームスを思わせるような落ち着いた抒情的な作風で書かれている。彼はレーガーのことも崇拝していた。しかし、セレナーデ『Aus der Jugendzeit』(若さより)とピアノと管弦楽のための『コンツェルトシュトゥック』 変ホ短調 作品74を除き、大規模な管弦楽作品、過度に感傷的な後期ロマン派の作風からは距離を置いていた。管弦楽伴奏の合唱作品には多くの野心的楽曲があり、ゲーテのテクストを用いた『Mahomets Gesang』 作品24(1896年)、合唱、管弦楽とオルガンのための『Sturmlied』 作品53(1910年)、同じ編成による『Festgesang』 作品64などが挙げられる[4]

室内楽曲としては3つのヴァイオリンソナタ[5]、2つのチェロソナタ、4つのピアノ三重奏曲[6]、2つの弦楽四重奏曲、3つのピアノ四重奏曲、2つのピアノ五重奏曲がある。とりわけ名高いのはヴァイオリンソナタ ホ長調 作品50(1907年)、ピアノ四重奏曲集 作品30(1899年)、同 作品41(1904年)、弦楽四重奏曲 1短調 作品60(1914年)である。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ホルンという珍しい編成による五重奏曲 ハ短調(1911年)には録音も行われている[7]。歌曲(リート)も重要な楽曲群であり、カーンは180曲の独唱曲、13曲の二重唱曲を作曲した[4]

カーンにはしばしば20世紀初頭の優れた音楽家から楽曲作曲の委嘱が舞い込んでいた。若いアドルフ・ブッシュに対してカーンはヴァイオリンとピアノのための組曲 作品69の初演を任せている。ヨーゼフ・ヨアヒムはカーンがまだベルリンで学生だった頃にヴァイオリンソナタ第1番 ト短調(1886年)を演奏できないかと打診をしており、同作品はヨアヒムへと献呈されることになった。クララ・シューマンは日記の中でこのソナタについて言及している。ヴァイオリンソナタ第2番 イ短調 作品26(1897年)もヨアヒムへ献呈されており、弦楽四重奏曲第1番 イ長調 作品8(1889年)はヨアヒム四重奏団によって初演され、同団に捧げられた。弦楽四重奏曲第2番はヨアヒムの後を引き継いだクリングラー四重奏団によって初演されている。クラリネット三重奏曲 作品45は著名なクラリネット奏者であるリヒャルト・ミュールフェルトに献呈、初演されている。ミュールフェルトはブラームスの後期室内楽作品にも霊感を与えた人物である。管弦楽のためのセレナーデは1890年にハンス・フォン・ビューロー指揮によりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で初演されている。

カーンが1938年にドイツから離れて新しく始まった作曲活動の結果として、1,100曲を超える膨大な数のピアノ作品が生み出された。これらは彼が1935年に始めた音楽日記(Tagebuch in Tönen)という形態をとっており、1週間に数曲ずつ、1951年に他界するまで作曲が続けられていった[3]。抜粋された29セットの楽曲を除くと、これらの作品は草稿の状態のままベルリン芸術アカデミーに保管されている。ピアニストのMaksim Štšuraが一部を録音したほか[8]ダニー・ドライヴァーも録音を制作している[9]

出典

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks