ロムルス・アウグストゥスの廃位

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ロムルス・アウグストゥスの廃位(ロムルス・アウグストゥスのはいい)は、476年9月4日に起きた、オドアケルによって皇帝ロムルス・アウグストゥスが退位させられた出来事。これは西ローマ帝国元老院の承認を受けたクーデターであり、オドアケルはイタリア王の称号を手にしてオドアケル王国英語版が建国された。ただしユリウス・ネポスによるダルマチア支配が480年まで続いた。

ローマ略奪

イタリア半島中部から後に地中海を囲む帝国へと発展し、千年にわたって繁栄をつづけたローマは長期間にわたって衰退し続け、5世紀には2回の略奪を受けた[1][2]。410年にはアラリック王率いる西ゴート族がローマを包囲後に入城し、市中を略奪した。455年には僭帝ペトロニウス・マクシムスに冷遇されたと思い込んでいたヴァンダル族ガイセリック王が和平を放棄し、ローマを攻撃した。元老院が残され、依然として西ローマ帝国の主要都市ではあったものの、二度の略奪やフン族の侵入を受けて西方皇帝の宮廷がより強固なラヴェンナに移された後、ローマはかつてのような地位を失っていた。教皇レオ1世に市民の安全を約束したヴァンダル族は市内へ入城したが、多くの不幸なローマ市民を連行し、中には北アフリカヴァンダル王国で奴隷として売られた者もいた[3]ウァレンティニアヌス3世帝およびペトロニウス・マクシムス帝の寡婦リキニア・エウドクシアカルタゴへ連行され、その娘はガイセリックの息子と結婚した。

ヴァンダル族の略奪によってローマはその人口だけでなく、多くの財宝も蛮族によって奪われた。略奪品は後に東ローマ帝国によって取り戻されるが[4]、その喪失は当時の西ローマ帝国に大打撃を与えた。

リキメルと他の有力な将軍

ヴァンダル族の侵攻によってローマの脆弱性が明らかになった後、かつて帝国に忠実だったガリア属州の蛮族たちが反乱を起こすようになった。ラヴェンナを拠点とする皇帝は市民からの尊敬を失い、(多くの場合蛮族出身だった)有力な将軍が守らざるを得なくなった[5]。将軍らの中の最年長者はマギステル・ミリトゥムと呼ばれ、後に皇帝として戴冠したアウィトゥスや、意のままに皇帝を擁立・廃位したリキメルスエビ族西ゴート族の混血)が代表的である[6]

475年、西方皇帝ユリウス・ネポス(東方皇后の甥)は自らのマギステル・ミリトゥムで、かつてフン族の指導者アッティラの重臣だった貴族フラウィウス・オレステスによって廃位された[7]。オレステスは自身の代わりに幼い息子ロムルス・アウグストゥルスを帝位に付けた。

オドアケルのクーデターと即位

476年の西(青)と東ローマ帝国(赤)

息子を介して統治したオレステスは、非ローマ系傭兵と敵対した。外国人将軍オドアケルに率いられた彼らは土地要求を拒絶されるとイタリアに侵攻した。兵士たちに対し、もし自分に従い命令に服するならば、ギボンの言葉を借りれば「忠実な請願によっても与えられなかった正義を力ずくで引き出すことができる」と語り、アリウス派ゲルマン人オドアケルは反乱における自らの指導的地位を確立した。イタリア諸都市・駐屯所の蛮族兵士は豪胆な将軍の軍旗のもとに「群れをなし」、オレステスは城塞化されたパヴィアに逃げ込んだ。オドアケルはパヴィアを包囲し、やがて陥落させた。パヴィア司教エピファンティウス英語版は多くの捕虜の身代金を払ったが[8]、オレステスを救うことはできず処刑された。

オレステスの兄弟はラヴェンナ近郊でオドアケル軍によって処刑され、オレステスは帝都に入城した。幼君ロムルス・アウグストゥルスは9月4日、元老院の前で退位させられた。元老院は東ローマ皇帝ゼノンに対し、オドアケルを知事として帝国の再統一を要請した。今やラヴェンナの主となったオドアケルは元老院議員に対しこの要請を促した[9][10]。しかし皇帝はダルマチアで依然カエサルの座にある后の甥ユリウス・ネポスが帝位に戻るべきだと指摘し、オドアケルに自治権に相応するものを与えるのを渋った。一方で武力行使も望んでいなかったゼノンはオドアケルに対しネポスの帝位承認を促しつつパトリキの称号を授け[11]、彼から献上された西ローマ帝国の軍旗を受け取った。

依然ラヴェンナにとどまっていた不幸な廃帝ロムルス・アウグストゥルスはオドアケルによって追放という形で遠ざけられた。この最後の西ローマ皇帝の運命は定かでないが、カンパニアルクッルス荘園英語版に隠居し、同地に聖セウェリヌス英語版の遺体が運び込まれる488年より前に没したと信じられている。480年、オドアケルにとってもうひとりのローマ人ライバル・ユリウス・ネポスが「家臣たち」によって暗殺される[12]。ネポスの殺害まで、ゼノンの甥の存在によってオドアケルのパトリキ号や正統性は承認されないままであった[13]

オドアケルは今や自らをイタリアにおけるヘルール族の王(476年 – 493年)だと称したが、イタリア王号を名乗らなかった。ローマ皇帝の権力を取り込んだ後もイタリアは形式上ローマ帝国の領土であり、西ゴート族をはじめとする他の蛮族と同盟関係にあった。彼は統治者として有能であり、5世紀終わりの混乱の中でイタリアが疫病や飢餓に見舞われたにもかかわらず、エドワード・ギボンのような歴史家はオドアケルの「思慮深さと人道性」を裏付けてる[14]

その後

関連項目

脚注

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