ニュージーランドの北島のテムズで測量士の娘に生まれた。父親の仕事の関係で家族は頻繁に引っ越し、オークランド、クライストチャーチ、ホキティカ、インバーカーギルに住んだ。1910年にホキティカに住んでいた時に画家ヒュー・スコット(Hugh Scott: 1869-1944)の弟子になり、インバーカーギルの女子高校で学んだ。1918年に母親が亡くなり、家族とクライストチャーチに移った[2]。
18歳の時、ハザードはカンタベリーの美術学校(現在のIlam School of Fine Arts)に入学した。校長になったアーチボルド・ニコル(Archibald Nicoll)らに学び、作家になったナイオ・マーシュ(1895-1982)や、画家になったエヴリン・ペイジ(Evelyn Page: 1899-1988).とともに学び、友人となった。
伝統に縛られない生活をし、風変わりな服装をし、事実婚を肯定的に語り、菜食主義などを推奨していた[3]。
1922年に同級生で教師となったロナルド・マッケンジーと結婚したが1925年に、イギリス生まれの軍人で後にエジプト学者、画家になるレスリー・グリーナー(Leslie Greener: 1900-1974)と駆け落ちした。世間からの非難されたため、カップルは1926年にフランスに移った。パリに住み、私立の美術学校、アカデミー・ジュリアンで短期間学んだ。風景画を描き、パリのサロンに出展し、1927年にはロンドンの女性芸術家協会の展覧会やカイロで作品を送り、ニュージーランドでも作品を展示した。
チャネル諸島やキプロス、ギリシャへ何度も写生旅行を行った。1927年に夫がエジプトのアレクサンドリアの学校で美術教師として雇われ、アレクサンドリアに移った。1928年、ハザードは深刻な事故に遭い背中を負傷し、1929年から1930年までロンドンに戻って治療を受けた。1930年にアレクサンドリアへ戻り、美術活動を再開したが、1931年に展覧会が開かれた翌夜、アレクサンドリアの夫の働く学校の4階建ての塔から転落し30歳で死亡した。スケッチ中の事故ともされるが自殺であった可能性もあるとされる。