ローレンス・パーソンズ (第4代ロス伯爵)
From Wikipedia, the free encyclopedia
生い立ち
第3代ロス伯爵ウィリアム・パーソンズと妻メアリー(1813年ごろ – 1885年7月22日、ジョン・ウィルマー・フィールドの娘)の息子として、1840年11月17日にキングス・カウンティ(現オファリー県)のバー城で生まれた[3]。家庭教師の教育を受けた後[4]、1860年6月11日にダブリン大学トリニティ・カレッジに入学、1864年にB.A.の学位を修得した[3]。
天文学者として
父は1845年にバー城で世界最大(当時)の天体望遠鏡「パーソンズタウンのリヴァイアサン」を建設した天文学者であり[1]、オクスマントン卿も父の存命中よりバー城の天文台で父を手伝ったり、高名な科学者に会ったりした[4]。1866年には最初の論文となる『Description of an Equatoreal Clock』を王立天文学会の学会誌に投稿し、1848年から1867年のオリオン大星雲観測記録を1867年に王立協会の『フィロソフィカル・トランザクションズ』に投稿した[4]。
1867年10月31日に父が死去すると、ロス伯爵位を継承した[3]。同年12月13日に王立天文学会フェローに[3]、12月19日に王立協会フェローに選出された[5]。
1868年より月からの熱放射を研究して、『フィロソフィカル・トランザクションズ』に論文を投稿した[4]。太陽以外から放射される赤外線の測定はロス伯爵が最初であり、赤外線の強度と月相の関係を研究したほか[1]、1895年に月食時の月からの熱放射に関するレクチャーをした[4]。ケリー県ヴァレンティア島の磁気観測所建設計画を支持して寄付金を出した[2]。
天文以外では弟チャールズ・アルジャーノン・パーソンズが発明した蒸気タービンにも興味を持ち、1894年に設立されたマリン・スチーム・タービン社(Marine Steam Turbine Company)、1897年に設立されたパーソンズ・マリン・スチーム・タービン社の会長を務め、1899年に王立造船学会会員に選出された[1]。
1870年6月22日にオックスフォード大学からD.C.L.の名誉学位を授与され[6]、1879年と1900年にはダブリン大学とケンブリッジ大学からそれぞれ名誉法学博士号(LL.D.)を授与された[3]。1888年に英国機械技術者協会の名誉会員に選出された[4]。学会職では1871年から1872年までと1887年から1878年まで王立協会副会長[5]、1876年から1878年まで王立天文学会評議会の評議員[4]、1885年から1908年に死去するまでダブリン大学学長、1888年から1892年までロイヤル・ダブリン・ソサエティ会長、1896年から1901年までアイルランド王立アカデミー会長を務めた[3]。
ダブリン大学学長として1903年に実業家の初代アイヴァー男爵エドワード・ギネスを説得して、物理学部と植物学部のための新しい建物の建設に必要な資金を寄付させた[1]。ロス伯爵自身も寄付した[1]。
政治家として
父の死去とともに領地管理に携わるようになり、1867年にキングス・カウンティ県長官を務めた[4]。1868年12月22日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1918年に死去するまで務めた[7]。貴族院では保守党に属した[3]。1883年時点でキングス・カウンティに22,513エーカー、ティペラリー県に2,633エーカーの領地を所有し、母が所有したヨークシャーの1,340エーカーと合わせて年収15,549ポンドに相当した[3]。1890年8月29日、聖パトリック勲章を授与された[3]。1892年6月13日にキングス・カウンティ統監に任命され、1908年に死去するまで務めた[8]。
死去
1906年より健康を害し[1]、1908年8月29日にバー城で死去、9月2日にバーで埋葬された[3]。長男ウィリアム・エドワードが爵位を継承した[3]。
遺言に基づき、ヴァレンティア磁気観測所のために集めた資金が「ロス基金」(Rosse Fund)として王立協会に寄託された[4][2]。
人物
ロス伯爵の助手を28年間務めたドイツの天文学者オットー・ベディッカーはロス伯爵が「かなり寡黙で内気」と形容し、その理由を子供のころやや箱入りだったことに帰している[1]。研究では「いかなる失敗にもめげず、粘り強く目標に向かって進んだ」と評した[1]。ロス伯爵自身は「公人として人と話したり、公の会合を主催したり、演説したりするのに労力が必要」と述べた[1]。
