ワット・チャンタサロー

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ワット・チャンタサロー(ラーオ語:ວັດຈັນທະສະໂຣ 英語:Vat Chanthasaro)は、、ラオス南部サワンナケート県(ラーオ語:ແຂວງສະຫວັນນະເຂດ)チャムポン郡(ラーオ語:ເມືອງຈໍາພອນ)ノーンラムチャン村(ラーオ語:ບ້ານໜອງລຳຈັນ)に位置する歴史的な上座部仏教寺院である。通称ノーンラムチャン寺(ラーオ語:ວັດໜອງລຳຈັນ)とも呼ばれる。17世紀後半から続く伝統を持つ。特に池の中に建つノーンラムチャンの水上経蔵(三蔵図書館)(ラーオ語:ຫໍໄຕຣປີດົກ ໜອງລຳຈັນ)がある聖地として、国内のみならず国際的にも広く知られている[1]

この水上経蔵は、観光ガイドブックなどでは ホータイピードック図書館(英語:Hotay Pidok Library)として紹介されることが多い[2]

ノーンラムチャン(またはノーンナムチャン)村の歴史は、17世紀、ラーンサーン王国(ラーオ語:ອານາຈັກລ້ານຊ້າງ)のスリヤ・ウォンサー王(ラーオ語:ເຈົ້າສຸລິຍະວົງສາ)の治世に遡る。当時、現在のラオス・ベトナム国境付近のセーポーン(ラーオ語:ເຊໂປນ)で起きていた戦乱を避け、プーゲーオ・プーナーン山から逃れてきたプータイ族(ラーオ語:ຜູ້ໄທ)とクワントゥーム族(ラーオ語:ກວນຕູມ)が、この地の豊かな水辺に定住したのが始まりである。池の北東側はプータイ族が、南西側はクアントゥーム族が住んだ[1]

池に香りの良い白檀(ケーンチャン)(ラーオ語:ແກ່ນຈັນ)の木が自生していたことから、村は「ノーンナムチャン(白檀の水の池)(ラーオ語:ບ້ານໜອງນ ໍ້າຈັນ)」、後に「ノーンラムチャン(ラーオ語:ບ້ານໜອງລຳຈັນ)」と呼ばれるようになった[1]

ワット・チャンタサロー・ノーンラムチャン寺とカムパー僧

寺院の建立は、定住3年後に南方から来たヤークー・ゴーク(ラーオ語:ຍາຄູ ໂກກ)という僧侶が村人に勧めたことで始まったと言われる。その後は、ヤークー・ブッダー(ラーオ語:ຍາຄູ ບຸດດາ)が寺院の建設を引き継ぎ、その後はクーバー・シン(ラーオ語:ຄູບາ ຊິນ)が継承した。クーバー・シンにはカムパー(ラーオ語:ຄໍາພາ)という甥がおり、彼は見習い僧(沙弥)として出家した[1]

高僧ヤーターン・ラック・カムパー(ラーオ語:ຍາທ່ານ ຫຼັກຄໍາພາ)

沙弥カムパーはここで2年間学んだ後、タイへ留学に送られた。そこで2年間学び、非常に優秀で聡明だったため、さらにタイのアユタヤ(ラーオ語:ກຸງສີ ອະຍຸທະຍາ)へ送られ、約5年間学んだ。その後、比丘(ヤークー)として受戒し、30歳の時にアユタヤで僧侶の教師に任命された。学問を修めた後、ヤークー・カムパーはさらにミャンマーへ留学することを願い出た。長い修行の後、3人のラオス人僧侶と共に故郷のノーンラムチャン村へ戻った。帰路、タイのウボン県にあるワット・シームアンとケムマラートで雨安居を過ごした。その間、ヤークー・カムパーは学んできた呪術や様々な知識を、膨大な量のヤシの葉(貝葉)(ラーオ語:ໃບລານ)に書き記した[1]

当時、ラオス(ラーンサーン王国)はアユタヤとの戦いに敗れ、黄金の品々が奪い去られていた。ヤークー・カムパーは書き記した貝葉が散逸することを恐れ、住民たちを説得して、貝葉を保管するために池の真ん中に三蔵庫を建立した[1]

その後、ヤークー・カムパーは再びアユタヤへ赴き、位を授かり、「ヤーターン・ラック・カムパー(ຍາ ທ່ານ ຫຼັກຄໍາພາ)」と呼ばれるようになった。彼はヴィパッサナー瞑想を極めた高僧であった。彼は、学んだすべての教えを後世への記録と研究の手引きとして貝葉に書き記しておくよう指導したことで、膨大な数の貝葉が残されることになった[1]

ヤーターン・ラック・カムパーは、一日一食、しかも10口分しか食べず、一口を完全に噛み砕いてから飲み込むという厳しい修行を積んだ。彼は動物の鳴き声を理解できたと伝えられており、迷子になったアヒルの居場所を村人に教えたという逸話も残されている[1]

本堂と大結界

現在の本堂そのものも重要であるが、特筆すべきは境内全体に及ぶ聖域性で、創設者であるヤー・ターン・ラック・カムパー(ラーオ語:ຍາທ່ານ ຫຼັກຄໍາພາ)が、通常の「プッタ・シマー(結界)」よりも広い、境内全体を囲む「マハー・シマー(大結界)」(ラーオ語:ມະຫາສິມມາ)を定めて経を唱えたと伝えられている。このため、現在でも寺院の敷地内では靴を履くことが厳禁されており、裸足で参拝するのがこの地の鉄則である[1]

施物堂の巨大柱

この寺院には、地域最大級かつ最古とされる施物堂(ラーオ語:ຫໍແຈກ)がある。ここには40本の巨大な木柱が並んでいる。これらはかつて「ジャークード」(ラーオ語:ຈ່າກູດ)と呼ばれる、牛だけでは到底引けないほど巨大な特注の台車を用い、多くの村人の力を合わせて運ばれたという[1]

大仏「プラ・プッタ・メッター・ローカナート」

敷地内には、高さ16メートルに及ぶ巨大な仏像「プラ・プッタ・メッター・ローカナート」(ラーオ語:ພຣະພຸທທະເມຕຕາ ໂລກະນາຖ)が鎮座しており、その周囲を108体もの小仏像が取り囲んでいる[1]

仏塔群

ヤー・ターン・ラック・カム・パー師をはじめとする歴代の住職の遺骨が納められた5基の仏塔(ラーオ語:ພຣະທາດ)があり、参拝者はまずここへ礼拝するのが作法である。歴代の住職(ヤーターン・ラック・カムパー、ヤーターン・プン、ヤーターン・チュアン、ヤーターン・ヌアン、ヤーターン・ポムマーなど)の遺骨を納めたもの[1]

古僧坊

約100年以上の歴史を持つ木造の古僧坊(ラーオ語:ກຸດດິບູຮານ)も残されている。かつての名僧ヤー・ターン・ポムマー(ラーオ語:ຍາທ່ານ ພົມມາ)師が居住していた[1]

水上経蔵(三蔵図書館)

この寺院で最も有名な建物が、17世紀後半に建立された水上経蔵(三蔵図書館)(ຫໍໄຕຣປີດົກ)である[1]。貴重な貝葉経(ラーオ語:ໃບລານ)を、シロアリネズミといった害虫・害獣の被害から守るため、池の中央に35本の柱を立てた水上建築という形式をとっているのが特徴である。内部には3つの経典棚があり、219の物語、326の束、合計2,391枚に及ぶ経典が保管されている。これらは1990年から2001年にかけて、日本トヨタ財団)やドイツ、ラオス政府の共同プロジェクトによって目録化され、整理された[1]。19世紀に一度修復され、2005年にはタイ王国政府から100万バーツの支援を受けて再建され、現在の壮麗な姿となった[1]

不発弾の奇跡

1972年のラオス内戦時、村の150軒もの家屋がT-28爆撃機の攻撃で焼失したが、水上経蔵と寺院には多くの爆弾が投下されたにもかかわらず、一発も爆発しなかった。現在も池の底や本堂の脇にはその不発弾が沈んでいると言われている[1]

参拝にあたっての心得

  • 礼儀正しい服装を心がけてください。
  • 大声を出さないでください。
  • 靴やサンダルは脱いでください。
    • かつて靴を履いて入った者が、原因不明の体調不良に陥ったという証言もあり、現在でも住民はこの禁忌を固く守っている。もし履いたまま入った場合は、謝罪の儀式を行う必要がある。
  • 水上経蔵に登る前に、前方にある5基の仏塔に礼拝する。
  • 三蔵庫へ上がる際の手順
    • 蝋燭1本(または花飾り:1対)、線香1本を用意。
  • 禁止事項と注意点
    • 女性はズボンではなく、伝統的な巻きスカートであるシン(ラーオ語:ສິ້ນ)を着用する。 かつて、ズボンを履いた女性が無理に上がろうとした際、意識を失って倒れたり、転落したりするという不思議な現象が何度も起きたと言われる。

アクセス

参考サイト

参考文献

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