ワット・マノーロム

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ワット・マノーロム本堂

ワット・マノーロム(ラオス語: ວັດມະໂນຣົມ、英語:Vat Manorom)は、ラオスの古都ルアンパバーンにある歴史的な上座部仏教寺院である。正式名称をワット・マノーロム・サッタラーム(ラーオ語:ວັດມະໂນລົມ ສັດທາລາມ 英語:Vat Manorom Satthalam)と称する。

ラーンサーン王国初期に建立され、王国の仏教信仰において重要な役割を果たしてきた。この寺院は、ルアンパバーンにおけるヴィパッサナー瞑想(観想)修行の重要拠点としての役割や、戦争により大きく損傷した巨大なブロンズ仏像の修復の歴史で知られてる。

ワット・マノーロムは、ユネスコの世界遺産「ルアン・パバンの町」ステータスが適用される、市内に現存する34の寺院の一つである。ルアンパバーン様式IIIに分類される[1]

司法権を持つ聖域

ワット・マノーロム本堂の屋根飾り

ワット・マノーロムはラーンサーン王国の国家建設と仏教振興が一体となっていた時期に建立された重要な僧院である。寺院の創建については複数の伝承があるが、一般的にはラーンサーン王国のサームセーンタイ王(ラーオ語:ພະເຈົ້າ ສາມແສນໄທຍ)(在位1373年 - 1416年)の火葬地に、その息子であるカム・デーン王(ラーオ語:ພະເຈົ້າຄໍາແດງ)(在位1416年 - 1427年)が建立したとされる[2]。建立者であるカム・デーン王自身の遺灰も、この寺院に安置されたとされている[3]

一方、サームセーンタイ王自身が建立したとする記録も存在し、サームセーンタイ王がワット・マノーロムやワット・ウポーソタなどの重要な寺院を建設したとするものもある[4]

15世紀後半のラーセーンタイ・プーワナート王(在位:1485年 - 1495年)(ラーオ語:ພະຍາຫລ້າແສນໄຕພູວະນາດ)の統治時代に、王立の学問や宗教儀礼の中心地として整備された。この時代、ラオスは仏教を基盤とした国家体制の強化を図っており、その一環として僧団の階級組織が整えられ、ワット・マノーロムの住職であったプラ・マハー・テープ・ルアン長老(ラーオ語:ພຣະມະຫາເທບຫລວງ)をタンマセーナー(右座主)に任命した。

15世紀後半から19世紀にかけて、ワット・マノーロムの住職は司法権を与えられていた。この寺院は「聖域」とみなされ、罪を犯した者が捕縛の恐れなく逃げ込み、更生を求めることができる場所であった[5]

マハー・テープ・ルアン住職

16世紀初頭のヴィスンラート王(1501年 - 1520年)の時代、ワット・マノーロムの住職であったマハー・テープ・ルアン長老(ラーオ語: ພຣະມຫາເທພຫລວງ)は、1503年に、ラーンサーン王国の主要な歴史記録である『クン・ボロム物語(ニターン・クン・ボロム)』(ラーオ語:ນິທານຂຸນບູລົມ)の最古の版を編纂した執筆者の一人として知られている[6]

また、ラオスで最も人気のある仏教文学の一つである『マハーチャート(ヴェッサンタラ・ジャータカ)』の説法本は、プラ・マハー・テープルアンによってパーリ語からラオス語へ最初に翻訳されたと推定されている[6]。彼はラオス文学の発展に大きく寄与した[6]

パバーン仏像の安置

1489年、それまでヴィエンカム(現在のヴィエンチャン近郊)にあったラオスの守護仏パバーン仏像をルアンパバーンに運び、ルアンパバーンの南西に位置するワット・シェン・カン(ラーオ語: ວັດຊຽງຄານ 英語:Vat Xieng Kan)に安置した[7]。その後1503年にヴィスンナラート王(ラーオ語:ພະເຈົ້າ ວິຊຸນນະຣາຊ )が即位すると、ワット・マノーロムに移された。パバーン仏像は1510年にワット・ヴィスンが完成するまでの約7年間、ワット・マノーロムに安置された[7]

本堂

ワット・マノーロム本堂の扉

1818年に 再建 されたが、1887年に黒旗軍(ホー族)(ラーオ語:ຫໍ້ ທຸງດໍາ)の侵略によって破壊された[8]。1965年に住職に就任したサトゥ・ニャイ・オンター・サンタパンニャーマハーテラ長老(1923-2003年)(ラーオ語:ສາທຸໃຫຍ່ອ່ອນຕາ ສັນຕະປັນຍະມະຫາເຖລະ)は、高僧チャンペン・チャンタサーロー師から学んだヴィパッサナー瞑想をこの地で広め、周辺7つの村と協力して1999年に本堂の再建や沙弥の仏教学校建設を主導した[9]

本尊

両腕、下半身の無い本尊レプリカ

14世紀または15世紀に鋳造されたとされる高さ6mの青銅製の仏像(ラーオ語:ອົງ ຫລວງ)が安置されている。本尊は、19世紀の黒旗軍(ホー族)(ラーオ語:ຫໍ້ ທຸງດໍາ)の侵攻等に大砲の弾の材料にするために両肩と両太ももを切り取られるという甚大な被害を受けたが[9]、サトゥ・ニャイ・オンター・サンタパンニャーマハーテラ長老の主導のもと、熟練の職人たちによって1972年に完全に修復された[10][8]。現在、寺院には両腕と下半身のないレプリカが安置されている[8]

ワット・シェン・カーン

ワット・マノーロム敷地内にある、ワット・シェンカーン本堂

本堂のすぐ後ろには、小さな寺院ワット・シェンカーン(ラーオ語:ວັດຊຽງກາງ 英語:Vat Xieng Kang )がある[8]

ワット・シェンカーンは、サイ・チャッカパット王の娘であるナーン・ケーン王女(ラーオ語:ນາງແກ່ນ)が12歳で早世した際、王は深く悲しみ、彼女の遺体をワット・マノーロムで火葬した。その後、彼女の遺灰を納めるための礼拝堂として、ワット・シェンカンを建立したと伝えられている[11]。現在のワット・シェンカンの本堂には、仏歴1951年(西暦1408年)建立、仏歴2544年(西暦1963年)サトゥ・ニャイ・オンター・サンタパンニャーマハーテラ長老により修復されたと記載される[8]

仏教学校

アクセス

参考文献

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