ワルドー・フォン・エリック
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ワルドー・フォン・ジーバー
カール・フォン・ジーバー
ワイルドマン・ズィム
ザ・グレート・ズィム
ザ・グリーン・ホーネット
ミスターM
エル・ティグレ
電撃男[1]
| ワルドー・フォン・エリック | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム |
ワルドー・フォン・エリック ワルドー・フォン・ジーバー カール・フォン・ジーバー ワイルドマン・ズィム ザ・グレート・ズィム ザ・グリーン・ホーネット ミスターM エル・ティグレ |
| 本名 | ウォルター・ポール・ジーバー |
| ニックネーム |
冷血鬼 電撃男[1] |
| 身長 | 193cm |
| 体重 | 120kg(全盛時) |
| 誕生日 | 1933年10月2日 |
| 死亡日 | 2009年7月5日(75歳没) |
| 出身地 |
オンタリオ州トロント |
| トレーナー |
アル・スピットル ホイッパー・ビリー・ワトソン |
| デビュー | 1950年 |
| 引退 | 1979年 |
ワルドー・フォン・エリック(Waldo Von Erich、本名:Walter Paul Sieber、1933年10月2日 - 2009年7月5日)は、カナダ・オンタリオ州トロント出身のプロレスラー。
フリッツ・フォン・エリックの「弟」を名乗り(実際には血縁関係はない)、ナチス・ギミックのドイツ人ヒールとして活躍した[2]。
YMCAにてレスリングのトレーニングを積み、1950年にカルガリーにて17歳でデビュー[3]。ワルドー・フォン・ジーバー(Waldo Von Sieber)またはカール・フォン・ジーバー(Karl Von Seiber)の名義でカナダ各地を転戦後にアメリカへ進出し、1950年代後半にフリッツ・フォン・エリックと邂逅。ワルドー・フォン・エリック(Waldo Von Erich)と改名してフリッツとの兄弟タッグチームを結成し、1958年10月にミッドアトランティック地区のNWA南部タッグ王座を獲得した[4]。
フリッツとのコンビを一時解消後、1960年代初頭は、ミスターM(Mr. M)、ザ・グレート・ズィム(The Great Zim)、ザ・グリーン・ホーネット(The Green Hornet)、エル・ティグレ(El Tigre)などのリングネームで覆面レスラーに変身したこともある[5]。素顔のワルドー・フォン・エリックに戻っての1963年には、中西部の各地にてウイルバー・スナイダー、カウボーイ・ボブ・エリス、クラッシャー・リソワスキー、ザ・シークらと対戦した[6]。
1964年、ニューヨークのWWWFに参戦。8月22日、9月21日、10月19日のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に3連続挑戦した(初戦では時間切れ引き分けに持ち込んでいる)[7]。翌1965年2月4日にはジン・キニスキーと組んでジェリーとルークのグラハム兄弟からUSタッグ王座を奪取[8]。同年8月2日のMSG定期戦では、当時WWWFでベビーフェイスのポジションにいたジョニー・バレンタインと対戦している[7]。
1966年より、フリッツがテキサス州ダラスにて設立したNWAビッグタイム・レスリングにてフォン・エリック・ブラザーズを再結成。1967年2月21日にアル・コステロ&カール・フォン・ブラウナー、9月11日にブルート・バーナード&マイク・パドーシスを破り、NWAアメリカン・タッグ王座を2度に渡って獲得した[9]。
その間の同年4月、日本プロレスの『第9回ワールドリーグ戦』に「ドイツ代表」として初来日。ザ・デストロイヤーに次ぐ外国人陣営の2番手となって優勝戦線を撹乱した[10]。5月開幕の『アイアンクロー・シリーズ』にも残留出場し、シリーズのエースとして参戦したフリッツとの兄弟タッグを日本でも実現させ、5月23日に大阪府立体育館にて、ジャイアント馬場&吉村道明のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している[11]。翌1968年1月には、グレート東郷のブッキングでTBS体制下の国際プロレスに来日、ナチス・ギミックの先達であるハンス・シュミットともタッグを組んだ[12]。
1960年代末はオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征。1969年4月4日、シドニーにおいてマリオ・ミラノと組み、ドン・レオ・ジョナサン&アントニオ・プリエーゼからIWA世界タッグ王座を奪取している[13]。帰米後は1971年3月、中南部のNWAトライステート地区にてカール・フォン・ブラウナーをパートナーに、ビル・ワット&ビリー・レッド・ライオンを下して同地区のUSタッグ王座を獲得した[14]。
以後、1970年代はシングル・プレイヤーとしての活動に専念し、1971年4月より五大湖エリアのNWFに登場。同年11月20日、オハイオ州クリーブランドにてジョニー・パワーズを破り第2代のNWF世界ヘビー級王者となった(12月8日にドミニク・デヌーチに王座を奪われるが、翌1972年1月5日に奪回。6月9日にアーニー・ラッドに敗れるまでタイトルを保持した)[15]。
1972年の秋には日本プロレスに再来日し、10月18日に高崎にて坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦している[16]。1973年から1974年にかけては再びオーストラリアにて活動、スパイロス・アリオンからNWA豪亜ヘビー級王座を奪取し[17]、タッグではヒロ・トージョーことサムソン・クツワダとの日独戦犯コンビで活躍した[18]。1975年は第2次政権時代のサンマルチノを狙い、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎えて久々にWWWFに登場[19]。8月27日にはペンシルベニア州ハンブルクにてアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した[20]。
1976年9月、NWFでの抗争相手でもあったアブドーラ・ザ・ブッチャーと共に全日本プロレスに来日。9月30日に岩手県営体育館にて、ブッチャーと組んで馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑み、大木金太郎のアジアヘビー級王座にも2回挑戦した。1977年には覆面レスラーのザ・グレート・ズィムとして、NWAトライステート地区にてテッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取したが、同年3月1日、ディック・マードックに敗れて王座から陥落[21]。これが最後のタイトル戴冠となり、1979年に引退した[5]。
晩年は地元オンタリオのケンブリッジを拠点とするインディー団体ICWに参画していた[5]。後進の育成も手掛け、ブライアン・キャノン、エリック・ヤング、ザ・ハイランダーズなどを指導した[22]。2009年7月5日、オンタリオ州キッチナーの病院にて死去[23]。75歳没。
なお、1980年代後半にダラスのWCCWでワルドーの息子と称するランス・フォン・エリック(ウィリアム・ヴォーン)がフォン・エリック兄弟(ケビン、ケリー)の従兄弟として活動していたが、フリッツとワルドーの兄弟設定と同様にギミック上のフィクションであり、ワルドーやフォン・エリック・ファミリーとの血縁関係はない[24]。
得意技
- ブリッツクリーグ・ダイブ(Blitzkrieg Dive)
- プロシアン・ドロップ
- アイアン・クロー