ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ
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| ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ Walther von Lüttwitz | |
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1918年撮影 | |
| 生誕 |
1859年2月2日 |
| 死没 |
1942年9月20日(83歳没) |
| 所属組織 |
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| 軍歴 | 1878年 - 1920年 |
| 最終階級 |
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ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ男爵(Walther Freiherr von Lüttwitz, 1859年2月2日 - 1942年9月20日)は、ドイツの軍人。ヴァイマル共和政初期の1920年3月に発生したカップ一揆の首謀者として知られる。
生い立ち
プロイセン王国のシレジアにプロイセン陸軍大尉のエルンスト・リュトヴィッツと妻セシルの間に生まれる。兄は後に 陸軍歩兵大将となるヒンコ・フォン・リュットヴィッツである[1]。
軍歴
1878年に陸軍士官学校に入学し軍人への道に進む。プロイセン陸軍第38シレジア歩兵連隊に少尉として入隊。1911年1月27日、少将としてハノーファー駐屯の第39歩兵旅団を指揮し、同年3月20日からはポツダムの第2近衛歩兵旅団を指揮した。1914年1月1日に中将に昇進し、ダルムシュタットの第25師団の師団長に就任した。
第一次世界大戦
第一次世界大戦中はさまざまな旅団の司令官を務め、1914年8月2日から9月26日まで、第4軍参謀長を務めた。参謀長解任後、1915年6月28日まで第33師団を指揮し、6月29日から9月25日まで第2衛兵歩兵師団の司令官を務めた。翌年12月22日から1916年8月20日まで、第10軍団司令官を務め、第2次シャンパーニュの戦いに参加した。同年8月21日に第5軍参謀長となり、10月27日から11月24日まで、「ヴィルヘルム皇太子軍集団」参謀長に就任し、ヴェルダンの戦いによる資源の消耗による軍事的影響を最小限にとどめることに成功した。一連の軍歴と功績から8月24日にプロイセン軍最高軍事勲章プール・ル・メリット勲章を受勲されている。11月25日から終戦まで、リュトヴィッツは第3軍団の司令官を務めた。1918年3月、リュトヴィッツの率いる第3軍団はフランスのサン=カンタンにおいて、ソンムでのドイツの春の大攻勢に参加した。
ドイツ革命・ヴァイマル共和国時代
1918年の終戦後、ドイツ革命により成立した人民代表委員会臨時政府により、暫定国軍のベルリン防衛司令官に任命された。翌年1月に発生したスパルタクス団の反乱を国防大臣グスタフ・ノスケの命令で、義勇軍を用いて鎮圧し、リュットヴィッツは共和国で最も影響力のある司令官の一人となった[2]。1919年3月、リュトヴィッツの地位は国軍第1軍司令官と改称され、同年5月には政府が有事や戦争の際の国軍全軍の最高司令官に任命した。歩兵大将に昇進したリュトヴィッツは、第5旅団、ドレスデン第4軍管区司令部配下の第4旅団や第16旅団等の軍を指揮下に置いたが、シュトゥットガルト第5軍管区司令部配下の第11旅団やミュンヘン第7軍管区司令部配下の第21旅団などは自立した傾向を取り、司令部が駐屯する州政府に忠誠を誓っていた[3]。リュトヴィッツは当時からストライキの違法化、失業保険の廃止など、軍司令官の責任範囲外の政治的要求を行っていた。

リュトヴィッツは多くの軍人同様、ヴェルサイユ条約締結には反対であった。彼は、この条約の規定が軍隊の再編成期間中に崩壊を引き起こすことを懸念し、とりわけドイツが兵力を10万人に制限されること、義勇軍の解散、戦争犯罪人と見なされた900人の連合国への引き渡しに猛烈に反発した。1919年7月には早くも、リュトヴィッツはヴァイマル共和国を倒し、フリードリヒ・エーベルトの政権を倒し、軍事独裁政権を樹立する計画に加わっていた。1920年2月29日、ノスケ国防相は義勇軍の中でも勢力の強かったエアハルト海兵旅団とレーヴェンベルト海兵旅団に解散を命じたが、エアハルト海兵旅団の領袖ヘルマン・エアハルト少佐は解散を拒否。防衛司令部付きの将校の中には政府の権威を公然と否定するこのやり方に恐怖を感じる者がいて、保守政党である国家人民党および人民党の指導者を通じての調停を図ろうとした。リュットヴィッツは彼らの考えに耳を傾けたが自分の行動指針を思いとどまることはなかった。ノスケはその後、海兵旅団をリュットヴィッツの指揮下から外した。リュトヴィッツはこの命令を無視したが、部下から提案されたエーベルト大統領との会談には同意した。3月10日の夜、リュトヴィッツは部下とともにエーベルトの執務室にやってきた。エーベルトはノスケにも同席を頼んでいた。リュトヴィッツは、右派政党の要求をもとに独自の要求を加え、国民議会の即時解散、陸軍統帥部長官ヴァルター・ラインハルト将軍の解任、自らの陸軍最高司令官就任、義勇軍の解散命令撤回を要求した。エーベルトとノスケはこれらの要求を拒否した。翌日の3月11日にノスケ国防相によりベルリン地区司令官を解任された。
カップ一揆
直後の3月12日深夜、前日までリュトヴィッツの指揮下にあり、解散が決まっていたエアハルト海兵旅団がベルリンに突入し、官庁街を占拠した。彼らの目的は帝政の連邦制構造への回帰を伴う(君主制ではない)権威主義体制を確立することであった。リュトヴィッツはドイツ国家人民党所属で東プロイセンの行政長官ヴォルフガング・カップらに3月13日に政府を引き継ぐ準備をするよう求めた。カップは「帝国宰相」を宣言し臨時政府を樹立し、リュトヴィッツは国防大臣兼軍総司令官を務めた。エーベルト、ノスケらヴァイマル共和政府はシュトゥットガルトへ逃れた。しかし、このカップ一揆は軍の司令官や旧体制の保守・君主主義グループからの支持を得たが、エリート層(官僚)や民衆の支持を得られず、シュトゥットガルトのエーベルト政府がゼネストを呼びかけたため、数日で失敗に終わり、リュトヴィッツは3月17日に逃亡し、カップ政権は崩壊した。
晩年
リュトヴィッツはベルリン警察の支持者から提供されたパスポートを使用し、ザクセンに向かいその後ハンガリーに亡命した。恩赦後の1925年にドイツへ帰国した[4]。ドイツ国内ではドイツ国家人民党(DNVP)を支持したが、政治的な活動は行わなかった。1931年にはハルツブルク戦線の創設を呼びかけ、1933年の権力掌握の際には内務大臣ヴィルヘルム・フリックに祝辞を述べている。その後はブレスラウで隠棲し、1934年に著書『11月革命のための闘い』を出版した。1942年に同地で死去した。
家族
リュットヴィッツは二度結婚しており、1884年にオーストリア出身のルイーズと結婚した。ルイーズとの間には三人の娘と一人の息子おり、息子は第二次世界大戦および初期のドイツ連邦軍で将軍を務めたスミロ・フォン・リュットヴィッツである。なお娘の一人はヴァイマル共和政時代に陸軍兵務局長(参謀総長の偽装名称)を務めたクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト将軍に嫁いだ。