ヴィンス・ガラルディ
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| ヴィンス・ガラルディ | |
|---|---|
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1967年 | |
| 基本情報 | |
| 出生名 | Vincent Anthony Dellaglio[1] |
| 別名 |
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| 生誕 | 1928年7月17日 |
| 出身地 |
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| 死没 | 1976年2月6日(47歳没) |
| 学歴 | サンフランシスコ州立大学 |
| ジャンル | |
| 職業 | |
| 担当楽器 | ピアノ |
| 活動期間 | 1953年 - 1976年 |
| レーベル |
ファンタジー・レコード(1956年 - 1968年) ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ(1968年 - 1969年) |
| 配偶者 | あり |
| 著名な家族 | マジー・マルセリーノ(叔父) |
| 公式サイト | ヴィンス・ガラルディ |
ヴィンス・ガラルディ (Vince Guaraldi、[ɡəˈrældi]、1928年7月17日 - 1976年2月6日)は、アメリカ合衆国の作曲家、ジャズピアニスト、プロデューサー。ヴィンス・ガラルディ・トリオのリーダー。
アニメ『ピーナッツ』シリーズ(スヌーピー)の作曲家として知られるほか、アメリカ合衆国では同シリーズを通してジャズを普及させたことでも知られる[2]。
生い立ち
サンフランシスコのノースビーチに生まれる[3]。出生名はヴィンセント・アンソニー・デラリオ(Vincent Anthony Dellaglio)だったが、母親のカルメラが実父のヴィンチェンツォ・デラリオと離婚した後、トニー・ガラルディと再婚したことから、ガラルディ姓を名乗るようになった。
幼少期よりミュージシャンとして活躍していた母方の叔父・マジー・マルセリーノの影響を受け、7歳からピアノのレッスンを始める[4]。
高校卒業後、サンフランシスコ州立大学へ短期間通った後はアメリカ陸軍に入り、朝鮮戦争中は料理人を務めた[5]。
初期のキャリア
1951年、トム・ハートとデモ音源(未発表)を作成し、これが最初のレコーディングとなった[6]。同年後半にはカル・ジャダーと共演し初の公式録音が行われ、「チョップスティックス・マンボ」や「ララバイ・オブ・ザ・リーブス」などを収録。これらは1953年に『ザ・カル・ジャダー・トリオ』としてリリースされた[7]。
1954年、エディ・デュラン(ギター)、ディーン・ライリー(コントラバス)と共に初のトリオを結成。サンフランシスコのジャズ・クラブで定期的に演奏を行う[8][9]。
1955年8月、ナイトクラブでのライブ・セッションでバンドリーダーとしての才能を開花させ、オリジナル曲「Ginza」と「ドクター・ファンクを呼ぶ(Calling Dr. Funk)」を録音。この二曲は、1956年3月にファンタジー・レコードからリリースされたアルバム『モダン・ミュージック・フロム・サンフランシスコ』に収録された。この時、感銘を受けたファンタジー社のオファーによって、ガラルディはファンタジー・レコードとの専属契約を締結。間もなく、デュランとライリーと共に自身初のアルバム『ヴィンス・ガラルディ・トリオ』をリリースした。
1956年、各地でツアーを行う中でカル・ジャダーと再会したガラルディは、彼が率いるストレイト・アヘッド・ジャズに焦点を当てたバンド、およびラテン音楽を取り入れたバンドの2グループに参加し主要メンバーとなった[10][11]。
1957年、2枚目のアルバム『A Flower Is a Lovesome Thing』をリリースしたが商業的に苦戦し、ファンタジー・レコードはガラルディとの契約を打ち切った[12]。1959年初頭よりガラルディは参加していたバンドを脱退し、ソロ活動に専念した。
第一線での活躍
1962年、映画『黒いオルフェ』(1959年)のサウンドトラックからインスピレーションを得たアルバム『Jazz Impressions of Black Orpheus』を発表。収録されたオリジナル曲「Cast Your Fate to the Wind」は、ラジオのディスクジョッキーが本来のA面曲「Samba de Orpheus」よりも好んでかけたことで予想外の人気を獲得し、全米トップ100チャートに19週間ランクイン。最高位は22位で、このジャンルでは異例の快挙となった[13]。ガラルディはその後、最優秀オリジナルジャズ作曲賞でグラミー賞を受賞した[14]。
この成功に乗じて、ファンタジー社はサウサリートで録音されたライブ・アルバム『イン・パーソン』をリリースし、続いてギタリストのボラ・セチとのコラボレーション・アルバム『ヴィンス・ガラルディ、ボラ・セチ・アンド・フレンズ』をリリースした。この縁により、ガラルディはボサノヴァとエレクトリック・ピアノを探求し、その後の『フロム・オール・サイズ』(1965年)のリリースなどでさらに注目を集めた。
ヒットの一方で、1965年までに金銭面での問題からファンタジー・レコードとの関係は悪化する。ガラルディ曰く、レコード売上のわずか5%しか受け取っておらず、時にはそれよりも低いこともあった[15]。一時は両者の間で訴訟問題に発展したが、1967年にファンタジー社がソール・ザエンツに買収されたことで両者は訴訟を取り下げ、ガラルディは独立した[16]。その後は和解し、ガラルディは契約以前に録音された楽曲の再放送および出版ロイヤリティの50%、それ以降に作曲された新曲の75%を含む、より良い条件を確保した[17]。
この過渡期に、ガラルディは自身の子供であるデイヴィッドとディアにちなんで名付けたD&Dレコードというレーベルを立ち上げた。1967年12月、彼はこのレーベルから唯一のアルバム『ヴィンス・ガラルディ with サンフランシスコ少年合唱団』をリリースした[18]。
『ピーナッツ』の作曲家として
1963年、漫画『ピーナッツ』(スヌーピー)の作者であるチャールズ・M・シュルツのドキュメンタリー番組『チャーリー・ブラウンという名の少年』を製作中だったプロデューサーのリー・メンデルソンは、ラジオで偶然、ガラルディの「Cast Your Fate to the Wind」を耳にする[19][20]。その曲に感動したメンデルソンはガラルディにドキュメンタリーの音楽担当を依頼し、ガラルディはこれを喜んで引き受けた[21]。まもなく、オファーに興奮を抑えきれなかったガラルディは、電話越しのメンデルソンにタイトル未定の曲を演奏。その曲は後に「ライナス・アンド・ルーシー」と名付けられ、『ピーナッツ』シリーズを象徴する曲となった[21]。
ドキュメンタリー番組『チャーリー・ブラウンという名の少年』はスポンサーを確保できずお蔵入りとなったが、音楽は録音され、1964年に『Jazz Impressions of A Boy Named Charlie Brown』としてリリースされた。
ガラルディの楽曲はメンデルソンだけでなく作者のシュルツも感銘を受け、メンデルソンとシュルツによる『ピーナッツ』初のアニメ化作品『スヌーピーのメリークリスマス』(1965年)にもガラルディは参加した。ヴィンス・ガラルディ・トリオとしてリリースされたサウンドトラック・アルバムは同作と共に大成功を収めた[22]。
その後、ガラルディはアニメ『ピーナッツ』シリーズに欠かせない存在となり、12本のテレビアニメスペシャルに加え、長編映画『チャーリー・ブラウンという名の少年』とドキュメンタリー『チャーリー・ブラウンとチャールズ・シュルツ』(いずれも1969年)の音楽も担当した[23]。
晩年
1968年、ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツと契約を結び、同社から『ピーナッツ』関連の楽曲を自ら再解釈しアレンジしたアルバム『Oh Good Grief! 』を発表した.[24]。1969年のアルバム『The Eclectic Vince Guaraldi』と『Alma-Ville』はエレクトリック・キーボードなど前衛的なスタイルを取り入れ、それまでの作品とは一線を画したものとなったが、これらの実験的な試みは批評的にも商業的にも賛否両論の評価を受け、ワーナー・ブラザース・セブン・アーツはガラルディとの契約更新を拒否した[25]。
『Alma-Ville』のリリース後、ガラルディはレコード会社の幹部との対立やレコーディング業界からの広範な疎遠により、継続的な組織的支援を得られなかった[26]。これにより、ガラルディはスタジオでのアルバム制作をやめ、ライブとテレビ番組の音楽制作に重点を移した[27][28]。なお、この頃に録音した楽曲の多くは、死後である2000年代にリリースされている。
1970年代以降の『ピーナッツ』シリーズのスコアは、ファンクやディスコといった当時のポピュラー音楽のスタイルを反映しており、1974年後半にはARPストリング・アンサンブル・シンセサイザーでさらに表現の幅を広げた。ロックンロールの隆盛からジャズクラブが衰退し多くのジャズ・ミュージシャンが失業する中、ガラルディはこれに抵抗するのではなく、自身のスタイルに流行を取り入れることで適応した。彼の後期の作品はジャズ、ロック、ファンクを融合させたもので、ハモンドB-3やフェンダー・ローズの電子キーボードが頻繁に使用されている[29][30][31]。
『ピーナッツ』シリーズの印税で経済的に安定していたガラルディは、より広い名声を求めるよりもカリフォルニア州のミルバレーに留まり、地元のクラブで演奏することを選んだ。彼は北カリフォルニアの音楽シーンにおいて、尊敬される人物であり続けた[32]。
死去
1976年2月6日午後11時7分、腹部大動脈瘤破裂のため死去[33][34]。メンローパークにあるバターフィールド・ナイトクラブのライブでビートルズの「エリナー・リグビー」を披露した直後であり、次の曲の演奏に向け休憩していた際の、突然の死であった[35][36][34]。
ガラルディの死は、多くの人々に深い悲しみをもたらした。リー・メンデルソンは後に訃報を「全く予想外」で、人生で最も悲しい日の一つだったと語ったほか、メンデルソンの息子であるジェイソン・メンデルソンは後に「父はガラルディの死についてほとんど語らず、その喪失から完全に立ち直ることはなかったと考えている」と述べた[37]。
葬儀はカリフォルニア州デイリーシティの聖母慈悲カトリック教会で行われ、遺体はコルマの聖十字架墓地に埋葬された[38][39]。
評価
存命時より『ピーナッツ』の音楽は大衆に広く受け入れられ一定の評価は得ていたものの、ジャズ界の一部では懐疑的な見方もされ、「商業的すぎる」「子供向け番組のための作品」と片付けられてしまうこともあった。
ガラルディが本格的に評価されるようになったのは、1980年代半ば以降であった。トリビュート録音や『チャーリー・ブラウンのクリスマス』の継続的な商業的成功により、ガラルディへの関心が再び高まった。
1996年までにサウンドトラック・アルバム『スヌーピーのメリークリスマス』はダブル・プラチナの地位を獲得し、その後も売上は伸び続けた。これを機に、ガラルディの息子・デイヴィッドは生前のガラルディが遺した個人的なオープンリールから未発表音源を発掘する作業を始め、『The Charlie Brown Suite & Other Favorites』(2003年)を皮切りに、2026年時点も未発表音源やリリースされなかった『ピーナッツ』の曲など、新たなアルバムが発表されている。これらのリリースは、ガラルディの未だ十分に記録されていない作品群に対するより深い洞察をもたらした。保存とプロモーションにおける長年の空白は、正式な録音契約の欠如、音楽業界との関わりの少なさ、そして彼の死後のカタログの断片的な状態に起因するとされている。
『スヌーピーのメリー・クリスマス』は、2007年にグラミー賞の殿堂入りを果たした[40]。2021年には「何百万人ものリスナーにジャズを紹介し広めた」との理由から「文化的、歴史的、または審美的に重要」とみなされ、全米録音資料登録簿に登録された[41][42]。2022年5月には、アメリカレコード協会(RIAA)によってクインタプル(5倍)・プラチナ認定され、ジャズとしてはマイルス・デイヴィスのアルバム『カインド・オブ・ブルー』に次ぐ第2位の数字となっている[43][44]。
デイヴィッド・ベノワなど、多くのジャズ・アーティストに影響を与えたことでも知られる[2]。歌手の野宮真貴は『スヌーピーのメリークリスマス』に関して「子供向けアニメーションであるにもかかわらず、サウンド・トラックが洗練されたジャズだったことは、私の音楽人生に少なからず影響を与えている」と話し、「渋谷系のルーツの重要な一枚」と評している[45]。
『ピーナッツ』シリーズでの評価
ガラルディ研究家のデリック・バングは、彼の音楽が『ピーナッツ』のアイデンティティと切り離せないものになったことを強調し、彼のスコアをフランチャイズを特徴づけるサウンドと表現するなど、作曲の一貫した活力を称賛した[46][47]。
メンデルソンも同様に、ガラルディのジャズはシリーズに不可欠だと考え、後に「そのスコアがなければ、『ピーナッツ』は今のようには発展しなかっただろう」と主張した[48]。
ラルフ・J・グリーソンは、ガラルディがシュルツの芸術的感性を音楽に翻訳するという難しい仕事を、自身の独特なスタイルを保ちながら成し遂げた、とした[49]。評論家のデイヴィッド・リッカートも同様に、ガラルディが『ピーナッツ』のサウンドトラックを通して多くのリスナーをジャズに紹介したことを認め、彼の作曲の洗練さと親しみやすさの両方を称賛した[50]。
ディスコグラフィ
※日本盤は、ユニバーサルミュージックよりリリースされている。
アルバム
- 『Modern Music from San Francisco』 (1956年、ファンタジー・レコード)
- 『ヴィンス・ガラルディ・トリオ』 - Vince Guaraldi Trio (1956年、ファンタジー・レコード)
- 『A Flower Is a Lovesome Thing』 (1957年、ファンタジー・レコード)
- 『黒いオルフェ』 - Jazz Impressions of Black Orpheus (1962年、ファンタジー・レコード)
- 『The Latin Side of Vince Guaraldi』 (1964年、ファンタジー・レコード)
- 『Vince Guaraldi with the San Francisco Boys Chorus』 (1967年、D&D)
- 『Oh Good Grief!』 (1968年、ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ)
- 『The Eclectic Vince Guaraldi』 (1969年、ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ)
- 『Alma-Ville』 (1969年、ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ)
サウンドトラック
- 『Jazz Impressions of "A Boy Named Charlie Brown"』 (1964年、ファンタジー・レコード)
- 『スヌーピーのメリークリスマス』 (1965年、ファンタジー・レコード)
- 『A Boy Named Charlie Brown: Selections from the Film Soundtrack』 (1969年、コロムビア)
参加作品
テレビスペシャル
- スヌーピーのメリークリスマス(1965年)
- チャーリー・ブラウンのオールスターチーム(1966年)
- チャーリー・ブラウンとかぼちゃ大王(1966年)
- 恋するチャーリー・ブラウン(1967年)
- きみの犬だよ、チャーリー・ブラウン(1968年)
- 短い夏だったね、チャーリー・ブラウン(1969年)
- もう一度弾いて、チャーリー・ブラウン(1971年)
- 選挙に勝とうチャーリー・ブラウン(1972年)
- 恋するヒマもないよ、チャーリー・ブラウン(1973年)
- チャーリー・ブラウンの感謝祭(1973年)
- ミステリーだよ、チャーリー・ブラウン(1974年)
- チャーリー・ブラウンのイースター(1974年)
- チャーリー・ブラウンのバレンタイン(1975年)
- フェアプレーだよ、チャーリー・ブラウン(1975年)
- 木を植えよう!チャーリー・ブラウン(1976年)
映画
- スヌーピーとチャーリー(1969年)
その他
- チャーリー・ブラウンという名の少年(1964年)※未放送