ハンガリー王国のペシュトで生まれた。父親の ヴェバー・ミハーイ(Wéber Mihaly)は国外からハンガリーに移ってきて、尊敬される商人となった人物で、教育に熱心な人物であった。父親に絵の才能を見いだされ、地元の画家ヤーノシュ・トービアーシュ・カーリング(János Tóbiás Kaergling: 1780-1845)から絵を学んだ[2]。17歳になった1835年にウィーンに移り、ウィーン美術アカデミーに入学し、絵画の教師や、版画制作して働きながら修行した。ヨハン・エンデルやレオポルト・クーペルヴィーザーの学生であった[3]。アカデミーで賞を得た。
1839年にハンガリーに戻ると、すでに国外で認められた画家として評価されていたが、国外でさらに評価されるために1840年には、ミュンヘンの展覧会に出展し、当時の有名な画家のヴィルヘルム・フォン・カウルバッハやペーター・フォン・コルネリウス、ボナヴェントゥラ・ジェネリ、ペーター・フォン・ヘスといった画家たちの作品とともに作品を展示された。ミュンヘン美術院の学生となり、1842年に卒業した[4]。その間、1841年と1842年にチロルとスイスを訪れ風景画も修行した。
1845年から1847年までイタリア各地を旅し[4]、ヴェネツィアやフィレンツェ、ローマ、ナポリを訪れ、風景画や、イタリアの民俗衣装を着た女性像を描いた。イタリアではミケランジェロ・グリゴレッティ(1801-1870)と知り合い、影響を受けた。イタリア滞在中に歴史を題材とする作品も描くようになった。
イタリアから戻り、ブダペストで活動し、有力な家族や著名人から肖像画などの多くの作品の注文を受け、国外にでることは無かった。1860年代には、フン族やアールパード朝、フニャディ家(Hunyadi family)の歴史など、ハンガリーの歴史を題材に版画作品を制作し雑誌に掲載された。
画家として高い人気を得ていたが1860年代に病気になり、1866年にペシュトで47歳で亡くなった。弟子にはロッツ・カーロイがいる[5]。