ヴォジミエシュ・テトマイエル
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ポーランド南部、マウォポルスカ県のハルクロヴァ(Harklowa)で生まれた。父親のアドルフ・テトマイエル(Adolf Tetmayer)はオーストリア帝国のガリツィア地方議会の議長を務めた人物で[1]、父親の最初の妻の息子で、異母弟のカジミェシュ・プシェルヴァ=テトマイエル(Kazimierz Przerwa-Tetmajer; 1865–1940)は高名な文学者になった。いとこに翻訳家のタデウシ・ジェレニスキー(1874–1941)がいる。
ヤギェウォ大学で学び、1875年から1886年までクラクフの美術学校(後にヤン・マテイコ美術アカデミーに改名)で学び、その後短期間ウィーンに留学した後、1886年から1889年までミュンヘンとパリで修行し、パリでは私立の美術学校のアカデミー・コラロッシで学んだ。1889年から1895年まではクラクフでヤン・マテイコの弟子として活動した。 [2][3][4]
1890年にアンナ・ミコワイチク(Anna Mikołajczyk; 1874–1954)と結婚し、クラクフ近郊に住んだ。妻の姉妹は詩人のルツィアン・リデル(Lucjan Rydel; 1870-1918)と結婚した。1911年にガリツィアの自治を求めるポーランド人民党の議員のオーストリア議会の議員となった[5] 。1912年にはポーランド軍事財務局の暫定委員会のメンバーになり、1913年12月にポーランド人民党が分裂した後は、ポーランド人民党「ピアスト」の共同創設者となり、第一次世界大戦後に、ポーランド第二共和国が成立した後、外交代表団のメンバーなどを務めた。
画家としてはポーランドの歴史に題材を得た作品や風景画や宗教画を描いた。
1923年にクラクフで亡くなった。