一条家 (中御門流)
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全盛期
一条能保
通重の遺児・一条能保は祖母の上西門院一条によって育てられ、没後に一条室町の邸宅を継承した。後に上西門院の庇護の下にあった源義朝の遺児坊門姫を娶った。坊門姫の兄である源頼朝が平氏政権打倒の兵を挙げると、能保は頼朝と接近し、寿永2年(1183年)11月に坊門姫や平頼盛とともに鎌倉に下向して頼朝と会見し、手厚い待遇を受ける。以後、頼朝の政治力の拡大とともに、鎌倉幕府と朝廷の連絡役として能保の存在感が高まり、鎌倉幕府からは文治2年(1186年)に京都守護に任ぜられ、朝廷においても文治4年(1188年)に能保が従三位に叙されて公卿に列した。建久2年(1191年)には九条良経と能保の娘(頼朝の姪)の婚儀が成立し、後に九条道家が誕生する。後に源氏将軍断絶後に摂家将軍が誕生する背景には摂家九条家に中御門流一条家を経由して河内源氏の血筋が入っていたことによる。能保は最終的に正二位権中納言に昇進した。
能保没後
建久8年(1197年)に一条能保が薨去し、その翌年には嫡男高能(従二位参議左兵衛督)も薨去する。続いて建久10年(1199年)の源頼朝の死去と直後に浮上した一条家家臣による土御門通親暗殺計画すなわち三左衛門事件が発生した。これによって一条家は大打撃を受けるが、後鳥羽上皇による院政の展開と源実朝を通じた鎌倉幕府との協調政策が展開されるようになると、一条家は院近臣として再び浮上することになった。更に幕府と一条家の関係も継続され、公暁による実朝暗殺事件の舞台となった建保7年(1219年)の源実朝右大臣拝賀に一条家から5名が参列していることからも、幕府の一条家重視の姿勢が見える。