七沢城
From Wikipedia, the free encyclopedia
第5代鎌倉公方・足利成氏と、関東管領・上杉憲忠(山内上杉氏)との確執により、1450年(宝徳2年)に勃発した江の島合戦の際、由比ガ浜から退却した上杉憲忠方の長尾景仲・太田資清(道真)らが糟屋庄の七沢山に築いたとされ、「七沢山要害」として史料(『鎌倉大草紙』)上に現れる[1]。
1486年(文明18年)の上杉定正(扇谷上杉氏)による太田道灌暗殺を契機として、扇谷・山内両上杉氏の間で1487年(長享元年)2月に勃発した長享の乱では、扇谷上杉の本拠地・糟屋館(伊勢原市)の北の守りとして上杉朝昌(上杉定正の兄弟)が守備に入ったが、山内上杉の上杉顕定・上杉憲房親子の攻撃を受けた。山内上杉側の感状などの史料には「彼城没落」など、落城を思わせる記載がある[1]。なお同2月5日の実蒔原の戦い(さねまきはらのたたかい)では、河越城(埼玉県川越市)から駆け付けた上杉定正の軍が激戦の末辛うじて勝利し、山内上杉軍を敗走させている[4]。
以後、扇谷上杉氏数代が七沢城に拠ったと伝わるが、上杉氏の手から離れた時期など、判然としない点が多い[1][2]。『日本城郭大系』(第6巻 千葉・神奈川)では、16世紀初頭には三浦氏の勢力下にあり、三浦義同が伊勢盛時(北条早雲)に敗れて相模中部における勢力を失う1512年(永正9年)頃に廃城ないし放棄されたと推論している[1]。

