七里恭三郎
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1867年、七里渉の次子として、越後国新発田に生まれ、伯父、七里千濤の養子となる[1]。興亜会支那語学校にて中国語を学んだ後、1887年清国に留学する[2][3]。1894年に勃発した日清戦争に通訳として従軍し、その功績の高さから立見尚文陸軍少将の知遇を得て、後にその娘婿となる。戦後立見が台湾総督府軍務局長に就くとこれに従って台湾に渡り、1897年台湾総督府の辞令により初代台北弁務署署長(台北市市長)に就任する。翌1898年、基隆弁務署署長に異動となる。署長退官後再び中国本土に戻り、日露戦争に従軍して勲五等を授けられた[4]。日露戦争後は満州の吉林にて林業事業を起こしたが失敗し、川崎造船所の駐中国顧問として北京や上海を往復する日々を送った[2][4]。1912年、上海からの帰国途上に病気にかかり、門司にて没した。
