弘化3年(1846年)正月(天保14年とも)、長州藩士の家に生まれたとされる。父は三刀屋平八(林雪)とする説がある。
文久3年(1863年)に奇兵隊に入隊し、元治元年(1864年)の禁門の変に参戦した。奇兵隊の隊長として数度の戦功があったともされる。明治元年(1868年)には鳥羽・伏見の戦いに参加し、同年正月2日、山口藩一中隊令官(中隊長)に任命された。
戊辰戦争では蝦夷地戦線に参加し、明治2年(1869年)5月、箱館戦争において官軍が松前口から進撃する際、松前口官軍総轄を務め、現地指揮官らと地形・戦術を協議のうえ、拙速な戦闘を避けて部隊を休養させたと記されている。また松前城奪回作戦では、城西立石野(札野前下トッチョの沢)で脱走軍の激しい迎撃を受け、戦況を不利と判断して上ノ国村への一時撤退を命じた。
明治初年(4年から5年か)自費でフランスに留学し、明治5年(1872年)2月20日に同地に到着、カレールに師事してフランス語を修めた。その後、スイスの陸軍学校への入学を希望したが、私費留学であったため資金面で困難を抱えていた。
この事情を知った、当時岩倉使節団理事官としてフランスに滞在していた山田顕義が、三刀屋と旧知であった山縣有朋、西郷従道に書簡で依頼し、公費留学扱いとするよう尽力したとされる。
帰国後の明治7年(1874年)9月14日、陸軍省七等出仕に補せられ、同年10月23日まで在職した。同年には佐賀の乱(佐賀賊徒)の鎮圧にも従事し、戊辰戦争とあわせて軍功があったとされる。
明治8年(1875年)5月9日、七等判事に任命され、以後司法官として勤務した。大阪上等裁判所に在勤中であった明治11年(1878年)11月23日、在職のまま病死した。なお、没年については明治10年とも、
その戊辰戦争および佐賀の乱における功績、ならびに在職中の死亡を理由として、国家より功労者として弔慰金70円が下賜された。