三好権三は、石見国日原の庄屋で銅山師として勢力を持った三好藤左衛門家の一族に生まれ、名を義路といった。七代藤左衛門(秀紀)の八男で、のち江戸に出て小栗忠順に仕えた。日原の藤左衛門家はかつて当地随一の経済力を誇ったが、八代藤左衛門(秀雄)の代には没落の苦難を迎えていた。その弟である権三は若くして江戸に出仕し、同家の再興を担う存在として期待されていた。
安政6年(1859年)9月、幕府が米国との通商条約批准交換のため新見正興らを全権として遣米使節を派遣するにあたり渡米した。その際には給金四両二分、支度金三十両、雑用金十両二分が支給された。大統領ジェームズ・ブキャナンからは記念章を授与され、それは後世まで三好家に伝わったが、胸像部分は剥落している。権三自身による渡米日記も存在したが、若くして没したこともあり現存しない。
帰国後には、褒美として万延元年正月から九月までの扶持・俸禄十か月分を金七百足として一括下賜されるなど、その功績が認められた。しかしその後まもなく、文久2年(1862年)5月22日、江戸駿河台の小栗忠順邸内で28歳で死去した。墓は故郷日原の三好家累代墓地にあり、法名は「釈教証信士」である。