三嶋与四治
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福井県出身[1][2]。1941年早稲田大学専門部政経学科卒業後、同年松竹に入社するが[1][2]、1942年入営[1]。終戦で南方より復員し[1]、松竹に復職[1]。演劇部、松竹歌劇団製作課長を経て松竹会館支配人、プロデューサー、映画宣伝部長、テレビ部長、映画製作本部次長兼企画部長などを歴任[2]。1969年4月28日の松竹第97期定時株主総会で取締役に就任し、総会後の取締役会で映画製作のトップ・映画製作本部長兼企画部長に就任した[2]。当時の松竹は映画部門が長年に渡り不振が続き、演劇など他部門の利益を食う状態[2]。映画製作のトップに就任後、松本清張作品を次々映画化し[3][4]、伝統的に強い喜劇、青春映画と合わせて松竹の映画部門を立て直した[5]。しかし1975年製作の西城秀樹のドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』の公開日を巡り[6][7][8][9]、日本テレビに平伏して公開日を延期する事態となり[6][7][8][9]、この大失態に城戸四郎松竹会長が「テレビや芸能プロに振り回されるとは何事か!」と激怒し、クビになったとされ[4][7][8][9][10][11][12]、1975年8月26日の役員会で三嶋に代えて福井褀和常務を昇格させたが[11][12]、福井が突然辞任するハプニングが起き[11][12]、やむなく当時81歳だった城戸会長が再び映画製作本部長として現場に復帰[4][11][12]、第一線で指揮を執った[4][7][8][9][11][12]。この人事は1975年の映画界十大ニュースの一つに取り上げられ[10]、松竹の先行きを不安視する見方もあった[10]。その後鎌倉ケーブルテレビコミュニケーションズ専務などを務めた[1]。