三嶋与四治

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本名 三嶋 与四治
生年月日 (1921-02-23) 1921年2月23日
没年月日 (2002-05-18) 2002年5月18日(81歳没)
出生地 日本の旗 日本福井県
みしま よしはる
三嶋与四治
本名 三嶋 与四治
生年月日 (1921-02-23) 1921年2月23日
没年月日 (2002-05-18) 2002年5月18日(81歳没)
出生地 日本の旗 日本福井県
国籍 日本の旗 日本
職業 映画プロデューサー
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三嶋 与四治(みしま よしはる[1]1921年2月23日[2] - 2002年5月18日[1])は、日本の映画プロデューサー[1][2]

福井県出身[1][2]1941年早稲田大学専門部政経学科卒業後、同年松竹に入社するが[1][2]1942年入営[1]終戦南方より復員[1]、松竹に復職[1]演劇部松竹歌劇団製作課長を経て松竹会館支配人、プロデューサー、映画宣伝部長、テレビ部長、映画製作本部次長兼企画部長などを歴任[2]1969年4月28日の松竹第97期定時株主総会取締役に就任し、総会後の取締役会で映画製作のトップ・映画製作本部長兼企画部長に就任した[2]。当時の松竹は映画部門が長年に渡り不振が続き、演劇など他部門の利益を食う状態[2]。映画製作のトップに就任後、松本清張作品を次々映画化し[3][4]、伝統的に強い喜劇青春映画と合わせて松竹の映画部門を立て直した[5]。しかし1975年製作の西城秀樹ドキュメンタリー映画ブロウアップ ヒデキ』の公開日を巡り[6][7][8][9]日本テレビに平伏して公開日を延期する事態となり[6][7][8][9]、この大失態に城戸四郎松竹会長が「テレビや芸能プロに振り回されるとは何事か!」と激怒し、クビになったとされ[4][7][8][9][10][11][12]、1975年8月26日の役員会で三嶋に代えて福井褀和常務を昇格させたが[11][12]、福井が突然辞任するハプニングが起き[11][12]、やむなく当時81歳だった城戸会長が再び映画製作本部長として現場に復帰[4][11][12]、第一線で指揮を執った[4][7][8][9][11][12]。この人事は1975年の映画界十大ニュースの一つに取り上げられ[10]、松竹の先行きを不安視する見方もあった[10]。その後鎌倉ケーブルテレビコミュニケーションズ専務などを務めた[1]

著書

脚注

外部リンク

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