三浦樗良
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志摩国答志郡鳥羽城下の大里(現・三重県鳥羽市鳥羽二丁目)で生まれ、伊勢国度会郡山田(現・伊勢市)に出て和田希因に入門する[4]。伊勢俳諧の伝統がある紀伊長島の貞門系の百雄に学び[1][2][3]、次第に伊勢派に近づき「我庵」で自風を確立。一時江戸に出るが窮乏[2]、帰郷して俳諧宗匠として安定した生活を送る。その後京都木屋町に無為庵を薄し、与謝蕪村周辺とも交流があった[1]。中興期俳諧の一翼を担い[1]、俳諧中興の六客の1人に数えられた[4]。晩年は仏門に入り、玄伸と名乗った[4]。安永9年(1780年)、伊勢国山田にて52歳で死去[1]。墓は伊勢市尾上町の寿厳院に構えられている[4]。同院には、山田で詠んだ「わか庵は 榎はかりの おちは哉」の句碑(落葉塚)もある[5]。