三谷八郎
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神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港橘高等学校)、慶應義塾大学出身。慶應義塾大学の野球部では、三塁手として活躍した。
大学卒業後の1936年から1939年まで甲子園大会の審判員を務め、1941年に南海の監督に就任。1941年秋、1942年春こそ巨人と優勝争いを繰り広げたものの、1942年夏にエースの神田武夫の病状が悪化すると、チーム成績も悪化[2]。1942年7月20日に成績不振を理由に解任された(代理監督は岩本義行)[2]。1948年からは審判員となった。1950年よりセ・リーグに所属し1953年まで務めた。通算の審判出場試合数は485試合。
1956年10月12日、胃腸症患のため阪大附属病院で死去[3]。51歳没。
1942年春、目の前にぶら下がっている優勝に目がくらんでしまい、すでに病状が悪化していた神田を酷使したこと[2]については、晩年まで「私が神田を早生させてしまった」と悔やんでいたという[4]。