伊予国久米郡久米村(現・愛媛県松山市)に日尾八幡神社の祠官の三男として生まれる。大洲出身の国学者常磐井厳戈や矢野玄道らと交わり、上洛して大国隆正に学び、平田派国学を修め、勤王の志士として活動した。文久3年(1863年)足利三代木像梟首事件に関わり、但馬国豊岡に五年間幽閉された。
慶応3年(1867年)放免と同時に新政府に登用され、維新後は神祇権少祐から外務権大丞を歴任した。1869年(明治2年)三輪田真佐子と結婚。明治5年には板倉勝任 (華族)らとともに神道と国学の「共心義塾」を開設し、漢学を教えた[1][2]。
明治12年(1879年)に郷里で52歳で没した。大正5年(1916年)贈従五位[3]。著書に『長暦陰陽』がある。