上原敬二
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東京深川で材木業の家に生まれる。上原の先祖は丹波綾部が郷国で、北面の武士になり、祖父が京都鷹司家分身朽木近江守一族で代々藩主の祐筆を務めていたといい、上原本人も父から書の塾へ通わされていたという。父安平は本業の材木業の他に伏見宮家造林掛の肩書でときどき宮家の財源林である君津、鬼泪山の赤松林に出張し、マキ材伐出を監督していたという。母親間近くの旧家の出で、寺子屋師匠も手助けをしていたという。上原も十代のころから父親の仕事関係でたびたび宮家行事の際に出入りして、お手づだい仕事を命ぜられた。
1904年(明治36年)に旧制東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)入学。二級下に芥川龍之介、同級に久保田万太郎がおり、終戦前後のころの不遇時代久保田に小説家転向を相談したことがある。こうして三中から旧制第一高等学校を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学農学部林学科を卒業。卒業後は一生を学究生活に送ることを決意し、就職問題には無関心。この時代の林業界は全盛時代、卒業生は引く手あまた、えり好み自由、官公吏としては国有林、御料林、府県林務課、民間の林業会社、製材製紙会社は伝手を求めて卒業生を迎えるに汲々、そうした時期に就職もせず、教室に残るとは変りものといわれた。こうして同大大学院へ進学。森林美学・造園学・樹木学・建築学等を専攻。
ここに現われたのが明治神宮境内林問題である。卒業期も近づいたので上原は正式に先生に研究室に残って研究生活に入りたき旨を申し述べその許しを請うたが、当時神宮境内設計について官制公布以前、農科大学教授連と連絡があったのか、上原が在学中に指導教授であった本多静六博士が屢々上原を招き神宮境内の設計、樹林の問題などにつき協力、手助けを求め、時には庭師を同席させ、他の助手をも招き協議を行うこともあったとき、協力を拒んでいる。もとより協力を惜しむべきではなかったが、上原はこの時は神宮関係の役所に役人として奉職するような気持はなかった。それに反し、恩師の本多は上原の卒業後はその部署に責任者として就職させる心算であったことがあとで判然する。本多は、研究はいつでもできる、こういう機会は二度とあるものではない、この際、神宮境内造成の部署に正式に責任者として就職するよう、つまり役人となるようにと口を酸くして勧めた。上原は役人がもともと嫌いであるのだが、こうまで口説かれては要望を入れないわけにはいかない、万事休すと思って渋々ながら承諾したという。
官制発布前であったので、取り敢えず内務省(造神宮使庁)嘱託として就任。本多は「君のいう樹木利用の趣旨に添う絶好の試験場である。専門の学問は机上論ではだめ、実地に応用し得るよい機会である。宜しく学説を実際に試みよ」と述べたというが、後日就任してからこの試験やら実験やらを行ったのが課長の気に入らず、幾度か論争することになる。上原は本多からの言説を楯として譲らず、大先輩に当たる課長もこれに負けず、試験場ではない点を強調して上原をやり込めたというが、こうした結果によって上原はのちに神社林の研究で林学博士を受章となる。
博士を受章した同年、造園学研究のため欧米へ留学し、後にアメリカ合衆国の大都市の公園事情を詳しく分析している。
1918年(大正7年)上原造園研究所 設立[1]。1923年(大正12年)に起こった関東大震災後発足の帝都復興院に任用されるが、7ヶ月で辞職。
帝都復興事業のための造園技術者養成を目指し、震災の翌年に東京高等造園学校を渋谷・常磐松の東京農業大学、当時は東京農学校のキャンパスの一角を借りて設立し、自ら校長となる。上原はこの学校で造園を学問的に分析し、大系づけ、造園技術をわかりやすく解明した。
1924年(大正13年)以降は東京高等造園学校校長のかたわらで、東京市と横浜市の公園事業の嘱託として、調査計画に関わる。横浜では1926年に、新聞社などをバックに捻出金を集め、公園を使って植木市を開催。またこの年に林泉社から刊行した『造園学汎論』(ぞうえんがくはんろん)は、現在の造園界の骨格にほぼ対応した構成を完成しており、さらに広範な造園対象を提示している先見性が認められ、日本初の本格的(体系的)造園学教育を目指そうとする意気込みが伝わってくる書籍となっている。構成は総説・造園史・個人造園・公共造園・都市公園・国立公園と風景問題の五編。公共造園について都市公園・国立公園を別立てで詳述しているのは、行政的に確立していない1924年(大正13年)時点では卓見しており、当時にあって公共建築・教化・療養・墓地・社寺・工業・運動・鉄道・国防・監獄・狩猟の各造園や田園都市の章を立てている。
その後、上原の創設した東京高等造園学校は1942年(昭和17年)4月1日東京農大専門部に併合され、専門部の造園科(現・地域環境科学部造園科学科)となった。