上山英一郎
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1862年(文久2年)、紀伊国有田郡山田原村(現・和歌山県有田市)の蜜柑農家に生まれる。上山長八の四男で先代彌兵衛の養子となり、1878年、家督を相続し前名秀之助を改めた[5][6]。上山家は日本有数の蜜柑農家であり、上山家の蜜柑は紀州山勘蜜柑(当主が上山勘太郎と称していたため)と呼ばれていた。
16歳の時に上京して神田の進徳館に入り学を修めて後、立教学校(現・立教大学)に転じて英国人に就いて語学を学び、さらに慶應義塾に教育を受けた[7]。しかし病気になり、涙を飲んで帰郷した[7]。病が癒えると再度上京し勉学を切願したが、近親者が許さなかったので、方向を転じて「産業界に貢献しよう」と深く決意した[7]。
1885年、サンフランシスコで植物の販売を行う植物輸入会社を営むH・E・アモアが、福澤諭吉の紹介状を携え、日本の珍しい植物を求めて上山の農家を訪ねた。上山はアモアに蜜柑、竹、棕櫚、葉蘭、秋菊などを進呈し、その見返りとしてビュハークという除虫菊の種子を譲り受けることとなる[8]。翌1886年より上山は除虫菊の種子の栽培研究を開始した。
1887年、除虫菊の栽培に成功した上山は、全国各地を講演して回り、この種の普及に努めた。1890年、仏壇の線香からヒントを得、持続時間1時間ほどの棒状の蚊取り線香を考案、発売する[9]。1895年、妻・ゆきの「渦巻き型にすればよいのでは」というアイデアに着想を得て、蚊取り線香の改良に着手、1902年に日本初の渦巻き型蚊取り線香を発売開始した。1919年、大日本除虫菊株式会社を設立。1929年、大阪駐在ユーゴスラビア名誉領事に任命された。1943年(昭和18年)9月7日、死去。享年82。
人物
受章
家族・親族
上山家
英一郎の長男・英之助は、先代勘太郎の養子となり、1908年、上山家15代の家督を相続[6]。1942年、社長を務めていた勘太郎は、東南アジアに出張中、シンガポールで航空機事故のため死去した。1943年、副社長を務めていた英一郎の三男・英夫は勘太郎を襲名し、社長に就任した。
- 父・長八[5][6]
- 姉・てい(1851年 - ?、和歌山、玉置傳三郎の母)[5][6]
- 妹・ひさ(1867年 - ?、和歌山、御前喜八郎の妻)[5][6]
- 妻・ゆき(1862年 - ?、和歌山、上山市郎兵衛の養叔母)[5][6]
- 長男・十五代勘太郎(1889年 - 1942年、前名は英之助、大日本除蟲菊社長)
- 二男・英三(1893年 - 1981年、台湾銀行頭取)
- 三男・十六代勘太郎(1899年 - 1984年、前名は英夫、大日本除虫菊社長)
系譜
━英一郎┳勘太郎 ┣英三 ┗英夫
親戚