上村孝二
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- 生い立ち
1908年、佐賀県武雄町で出生。本籍は鹿児島県上甑村(甑島列島、現在の薩摩川内市の一部)[1]。生後すぐ母が亡くなったこともあり、上甑村中甑の上村家の養子となった[2][3]。同村の中津尋常高等小学校を経て、1925年(大正14年)に本土の鹿児島県立川内中学校 (旧制)を卒業[3]。
旧制中学卒業後に帰郷し[3]、上甑村の江石尋常高等小学校で1年間代用教員を務めた[2][3]。その後、九州帝国大学法文学部国文学科に入学して学び、1933年3月に卒業。
- 大学卒業後
卒業後は、同1933年4月より満州国文教部学務司長室に勤務[2][3]。翌1934年(昭和9年)4月11日付で満州国内の奉天高等女学校講師となり、同年9月5日に教諭に昇任(後に学校名は「奉天浪速高等女学校」と改称)[2][3]。1941年3月31日、奉天浪速高等女学校教諭から鹿児島県師範学校教諭に転任となり帰国[2][3]。1943年、鹿児島県師範学校が官立の鹿児島師範学校となり、引き続き教諭を務めた[2]。1945年4月より鹿児島師範学校教授兼教諭[2]。
- 戦後
学制改革により、1949年7月31日より新制鹿児島大学助教授に任じられた[2][3]。1951年4月1日、鹿児島大学文理学部教授に昇格。1965年4月1日からは学部再編により法文学部教授となった[2]。1972年、学位論文『九州西南部方言及び琉球地方方言の研究』[3]を九州大学に提出して文学博士号を取得[4][2]。1973年4月2日、鹿児島大学を定年退官して名誉教授となった。
その後は鹿児島短期大学教授に就任[2][3]。1974年4月から3年間、鹿児島短期大学図書館長も務めた[3]。1982年3月31日、鹿児島短期大学を辞職[2]。1996年3月25日に再生不良性貧血で死去し[2][3]、同日付で正四位に叙される[3]。