上毛モスリン
From Wikipedia, the free encyclopedia
その名の通りモスリンの製織を事業としていた。日本でいうモスリンとは梳毛を用いた薄手の毛織物で、明治前期には盛んに輸入されていた。館林周辺では伝統的に機織業が盛んであったが、荒井藤七、鈴木平三郎らはモスリンの国産化が有望とみて取り組み、1895年(明治28年)におそらく日本で初めて製織に成功したものと考えられている。翌年には羊毛の輸入関税が撤廃されたことで、輸入織機を用いて大規模なモスリン製織に乗り出す会社が相次いだが、荒井らは当初独自開発の手機法を用いていたことと、内陸で原材料の輸送に難があったために小規模に留まっていた。東京・大阪の資本を取り込み、1907年に東武鉄道伊勢崎線が開通したことで輸送面も大きく改善したことから近代的な大規模工場を稼働させたのが1910年(明治43年)になってからである。しかしこの頃にはすでに国産モスリンの供給力が過剰になりつつあり、投資に見合った利益を上げることは容易ではなくなっていた。[1]
沿革
上毛モスリン株式会社は群馬県邑楽郡館林町の有志が創業した織物工場を母体として1902年(明治35年)4月に設立され、当初資本金2万円は1912年(明治45年)には400万円と躍進を遂げた[2]。しかしこれによって東京や関西の投資家の発言力が強くなり、経営陣の内部や株主との間で意見が対立することがたびたび起きた。第一次世界大戦の影響による原料不足がきっかけの経営不振の折には、大阪の毛斯綸紡織の経営で評価の高かった松尾久男が専務取締役となって経営立て直しに成功した。しかし1921年(大正10年)から翌年にかけて川又貞次郎らによる実質的な乗っ取りが起こり[3][4]、経営難に陥っていた大日本紡織(練馬)や富士毛織(沼津)を合併するなど強気の経営方針となったが[5][6]、直後の関東大震災により受けた打撃から立ち直ることができずに破綻した。
- 1894年(明治27年)6月 - 荒井藤七、鈴木平三郎らがモスリン製織に着手する。[7]
- 1896年(明治29年)7月 - 毛布織合資会社(資本金1万円)を設立する。[7]
- 1897年(明治30年) - 工場を鞘町(現・館林市仲町)に建設する。[8]
- 1902年(明治35年)4月 - 上毛モスリン株式会社(資本金2万円)に改組[2]
- 1910年(明治43年) - 館林城二の丸跡の新工場の操業を開始する。[8]
- 1912年(明治45年) - 日本毛糸モスリン株式会社(岐阜工場)を買収する。[2]
- 1916年(大正5年)10月 - 岐阜工場を日本毛糸紡績株式会社に売却する。[2][9]
- 1923年(大正12年)2月28日 - 大日本紡織株式会社(練馬工場)を買収する。[10][5]。
- 1923年(大正12年)6月30日 - 富士毛織株式会社(沼津工場)を買収[5][6]。
- 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により練馬工場が倒壊。
- 1926年(大正15年)8月 - 破産申し立て[8][9]
- 1927年(昭和2年)5月 - 債権者の一部が練馬工場を引き受けるため武蔵紡織株式会社を設立。また日本興業銀行は社債400万円の担保となっていた中山・館林工場を引き受けるため共立モスリン株式会社を設立し、これに日本毛織が390万円を出資する。[9]
- 1927年(昭和2年)6月27日 - 館林工場と中山工場を抵当権により共立モスリン株式会社に譲渡[8]
- 1974年(昭和49年)10月1日 - 商法附則(昭和49年法律第21号)第13条1項の規定により会社組織を解散する。
事務所
| 旧上毛モスリン事務所 | |
|---|---|
|
旧上毛モスリン事務所 | |
| 情報 | |
| 用途 | 資料館 |
| 旧用途 | 事務所 |
| 建築主 | 上毛モスリン株式会社 |
| 管理運営 | 館林市教育委員会 |
| 構造形式 | 木造 |
| 延床面積 | 470.41 m² |
| 階数 | 2 |
| 竣工 | 1909年(明治42年)12月19日 |
| 所在地 |
〒374-0018 群馬県館林市城町2-3 |
| 座標 | 北緯36度14分39秒 東経139度32分46秒 / 北緯36.24417度 東経139.54611度座標: 北緯36度14分39秒 東経139度32分46秒 / 北緯36.24417度 東経139.54611度 |
| 文化財 |
群馬県指定重要文化財 ぐんま絹遺産(23-6号・平成23年7月14日登録) |
| 指定・登録等日 | 1978年(昭和53年)10月13日 |
1908年から1910年にかけて館林城二の丸跡に館林工場を建築した際に建てられた事務所が、上毛モスリン株式会社のほぼ唯一の遺構として現在も残っている。木造瓦葺2階建ての擬洋風建築で、全体は尺貫法による入母屋造であるが、上げ下げ窓、柱、手すり、天井など随所に洋風の意匠が取り入れられている。背面にレンガ造りの金庫・文書庫が付けられているのが特徴的。館林工場は上毛モスリンが破綻した後も日本毛織や神戸生絲などの工場として存続していたが、館林市庁舎の建設予定地になると1977年に地元から保存の要望が出された。結果、およそ600mほど曳家により移転して保存されることとなり、1978年に群馬県の重要文化財に指定され、1981年に館林市第二資料館の一部として公開された。[8][11]