上荘町国包
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国包の名の由来は、この地域を開拓した名主の名が有力である。また、クニは地域のこと、カネは曲がった土地を表す事から、加古川の湾曲した地形から名付けられた説もある[4]。
歴史
古代から加古川の水害に悩まされてきた。鎌倉時代まで、加古川西岸に存在していたが、1225年(嘉禄元年)8月の大水害により元の集落は、河原となり、住人は東岸に移動した。1756年(宝暦6年)当地出身の長浜屋新六郎が、私財をなげうって、水害時の避難所として築山を築いた[5]。湯山街道の宿場町として栄え、1594年(文禄3年)の加古川の舟運が開発されると木材、酒、米の集約地として栄えた[6] 。
沿革
- 1225年(嘉禄元年) - 加古川の大水害により、集落が河原となる。加古川東岸へ移住する。
- 1756年(宝暦6年) - 長浜屋新六郎が水害時の避難所として築山を築く。
- 1816年(文化20年) - 亀井ぜきが完成する。これにより国包村の水利が改善し、石高が増大する[7]。
- 1874年(明治7年) - 国包尋常小学校が開校する[8]。
- 1874年(明治7年)12月16日 - 国包郵便局(四等郵便局)開局する[9]。
- 1877年(明治10年) - 国包尋常小学校と照明小学校が合併し、曲渕小学校(加古川市立八幡小学校の前身)となる[10]。
- 1886年(明治19年) - 国包郵便局が三等郵便局になる。
- 1887年(明治20年) - 曲渕小学校が宗佐尋常小学校と改称される。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制により上荘村の大字国包となる。
- 1892年(明治25年)10月 - 宗佐尋常小学校が、八幡村立八幡尋常小学校となり、同校委託となる。
- 1900年(明治33年) - 国包銀行[11](三井住友銀行の前身の一行)が開業する。
- 1902年(明治35年) - 八幡村への委託を解き、上荘・平荘組合立平荘尋常小学校の国包分教場となる。
- 1903年(明治36年) - 国包尋常小学校が開校する[8]。
- 1913年(大正2年)4月1日 - 播州鉄道(現・JR西日本加古川線)が開通し、国包駅(現・厄神駅)が開業する。
- 1916年(大正5年)11月21日 - 播州鉄道支線(後に三木鉄道三木線)が開通し、国包駅(2代目)が開業する。
- 1921年(大正10年)5月25日 - 加古川大改修起工式が行われる[12]。
- 1925年(大正14年) - 国包尋常小学校が上荘尋常小学校に統合され、国包分教場(1・2年生のみ)になる。
- 1933年(昭和8年) - 加古川大改修完成する[12]。
- 1955年(昭和30年) - 上荘村が加古川市に合併。それにより上荘町国包となる。
- 1961年(昭和36年) - 加古川東側の地域での小学校の学区が、加古川市立上荘小学校から加古川市立八幡小学校に変更。これにより上荘小学校国包分校は閉校。
- 1968年(昭和43年) - 加古川市東部土地改良区設置。圃場整備事業開始[13]。
- 1969年(昭和44年) - 国包保育園が開園する[14]。
- 1978年(昭和53年) - 圃場整備事業完了する。
- 1997年(平成9年) - 国包保育園が閉園する。
経済
世帯数と人口
小・中・義務教育学校の通学区域
2024年4月現在、市立小・中・義務教育学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
- 小学校
- 加古川市立八幡小学校(加古川東側)
- 中学校
- 加古川市立山手中学校(加古川東側)
- 義務教育学校
- 加古川市立義務教育学校両荘みらい学園(加古川西側)
交通
施設
- 国包郵便局
- 国包公園
史跡
- 加古川市指定文化財
- 榎・椋の樹 榎2本・椋1本 国包伊勢講 (1990年(平成2年)10月11日指定)
