上野賢一
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履歴
1927年金沢市に生まれる。父親は旧制金沢医大、現在金沢大学医学部生理学教授 上野一春。父親は生理学教科書を書いており、賢一はそれをみていたという。1947年 第四高等学校理科甲類卒業。1951年、東京大学卒業。1952年 東京大学皮膚科に入局。助手となる。皮膚科を選んだ理由は北村包彦(かねひこ)主任教授に魅せられたからという。三楽病院皮膚泌尿科に出張した時もある。その後ドイツ、キール大学にフンボルト奨学生として留学。主に放射線について研究した。(1961-1964年)。留学中にドイツの60位の都市を訪れた。1960年東京大学 医学博士 論文の題は「老人性皮膚変化の研究」[2]。 1966年東京大学医学部講師、1967年 東京医科大学皮膚科助教授。ここではレントゲンや悪性腫瘍を主に勉強した。(この間、ハイデルベルク大学、ボン大学に留学)(1972年)。1976年 筑波大学皮膚科初代教授。新設大学で、システムを立ち上げるのに苦労した。1991年、定年退職。同大学名誉教授。定年後は再就職は考えなかったが、一時10年程、週に2回勤務していた。脊椎間狭窄症の手術をした後は医師の仕事をやめ、好きなエッセイを書くのをつづけている[3]。
主要著書
エッセイ
初出は日本医事新報、いずみ(薬品会社の広報誌)、皮膚科の臨床誌(この雑誌の編集委員を長くつとめた)、皮膚病診療、など。主に自分の経験、仕事、皮膚科の臨床、雑誌の投稿記事、ドイツ留学に関して興味を覚えたこと:自分の意見をストレートに書いていて、時には抗議があったという。 エッセイ集として
- 『随想 深海魚』 1991 (90編以上のエッセイから)
- 『ウェッツラーの坂道から』 2003 文芸社
- 『めもらんどうむ で でるまとろぎあ 二十世紀の皮膚科を生きて』 2003 金原出版 ISBN 4-307-15058-9
- 『夕映えの甍』 2007 岩波出版サービスセンター 自費出版
- 第1章 海を眺めながら 第2章 小さい思い出 第3章 ゲーテをめぐって 第4章 皮膚科学の回想
- 本になった以外に 皮膚科の臨床誌に数年間にわたりドイツの医師や日本の医師(特に太田正雄)ほか種々の題でエッセイを連載した。没後2013年に終了した。
皮膚科の教科書について
1957,8年頃皮膚科の問題集を作った。EM選書といい著者名がでていなかったが、自分の文章のくせがでていたらしく、当てられたことがあった。1958年と1970年に発行された。その前に共著で皮膚病診療指針(1962)、皮膚科治療の実際(1969)を書いた。その後、金芳堂から頼まれて教科書を書いた。約1年かかって1971年に第1版を出した。定年直前に第5版を出した。2002年3月に第7版を出した。[4]