下夕張鉄五郎
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戸籍の作成にあたって日本語名をつける必要が生じたため、居住地の下夕張をもって姓とした[3]。文献によっては姓を夕張としている[4]。また個人名は、かつて近隣一帯の有力者であった松前鉄五郎にちなむ[3]。
上記の命名者は泉麟太郎であったと伝わるが、異説によれば1881年(明治14年)の明治天皇北海道巡幸の折、天皇から「下夕張鉄五郎」と名乗るよう言われたという[3]。
なお、北海道大学附属図書館に保管されている写真「開拓使東京第3号園留学アイヌ人 其2」の裏面には、「下湯原鉄五郎」と誤記されている[5]。これは名前の聞き取りの際、「夕張」をアイヌ語の発音 "yubar" で答え、それを日本語話者が「ゆばら」として記載した可能性が考えられる[5]。
生活
経歴
鉄五郎は、乙名を補佐する役職である小使の子であったため、1872年(明治5年)に東京の開拓使第3官園へと連行され、強制就学させられた[6]。
1881年(明治14年)に北海道を巡幸した明治天皇が教育費を下賜した、アイヌ23人のうちに名を連ねている[3]。
1888年(明治21年)5月には、夕張原野への入植を試みる泉麟太郎一行の案内をしている[7]。泉は先発隊として5月8日に夕張川を越える予定であったが、折悪しく増水していたため、鉄五郎の進言で渡河を見合わせることとなった[8]。5月11日に後発隊が追いついてもまだ進むことができず、さらに5日間も野宿を重ねた末の5月16日、鉄五郎は晴天を見計らって移民たちをひとりずつ丸木舟に乗せ、夕張川を越えた[7]。また馬については、浅瀬を選んで渡らせた[9]。
1906年(明治39年)7月[1]、夕張川沿で生涯を終え、その地に土葬されたが、洪水のせいで墳墓の痕跡は残っていない[2]。彼の長男の下夕張シユンタローの一家は、やがて由仁を引き払い、長沼町舞鶴地区へ移住したと言われる[2]。
