下川儀太郎
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静岡県[3]静岡市太田町[1][2][4](現:静岡市葵区太田町)出身。1918年(大正7年)静岡商業学校(現静岡県立静岡商業高等学校)を卒業し[3][4]、日本大学芸術科を中退した[1][2][4]。
1924年(大正13年)に労働詩を発表[4]。日本プロレタリア作家同盟(中央委員)、全日本無産者芸術団体協議会に加わり、詩、評論などを発表[1][3][4]。戦前、戦中の静岡県プロレタリア文化運動の中心人物として活動し、反戦容疑などで2回投獄された[4]。また、社会事業にも参画し母子ホーム託児所の建設、運営を行った[1][3][4]。
1947年(昭和22年)静岡市から静岡県議会議員に選出され2期在任し、民政労働委員長を務めた[3][4]。1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙に静岡県第1区から左派社会党公認で出馬して初当選し[4][5]、その後、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙まで再選され[5]、衆議院議員に連続3期在任した[1][3][4]。この間、社会党再統一後には社会党文化副委員長、同静岡県連書記長、同副委員長などを務めた[3][4]。1961年死去。死没日付をもって正五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された[6]。