下瀬熊之進は、長州藩馬廻役・下瀬七兵衛の子として生まれ、同藩士の長野熊之丞の従弟にあたる。生年は天保14年(1843年)とされ、長門国(現・山口県)萩の藩士であった。
学問を好み、詩文に長じた人物として知られる。幕末期には尊王攘夷思想に傾倒し、文久3年(1863年)、下瀬は奇兵隊に加わり、赤間関(下関)において外国艦船を砲撃する攘夷戦に参加した。同年、三条実美らいわゆる七卿が京都を追われて周防国三田尻(現・防府市)に下向した際には、その護衛にも従事している。
同年11月12日、周防三田尻の本陣を脱して但馬国(現・兵庫県)生野に赴き、沢宣嘉らによる挙兵(生野の変)に参加した。しかし挙兵は短期間で鎮圧され、下瀬は沢を脱出させたのち、但馬国山口村(現・兵庫県朝来市)妙見山において自刃した。享年21。
墓所は、兵庫県朝来郡朝来町山口村(現・朝来市)および山口県萩市北古萩の広雲寺に所在するとされる。
明治35年(1902年)、勤王の志を評価され、従五位を追贈された。