不道

From Wikipedia, the free encyclopedia

不道(ふどう)は、中国と日本の律令制度の律における犯罪または犯罪類型である。

代と代以降で大きな違いがあり、漢代にも前漢初期から末期にかけて変化がある。漢代のはじめ、不道とは行為と量刑に具体性を欠いていた。事件の蓄積により、皇帝や官・民を欺く行為を、棄市(死刑にしてさらし首)にするものとなった。

唐代以降は様々な量刑を持つ複数の犯罪をまとめた犯罪類型で、十悪の5番目にあたる。多数・異常な殺人など非人道的な一般犯罪を対象にした。

日本の律は唐のものを継承し、八虐の5番目にあてた。唐律の犯罪に加えて、目上の者に対する犯罪のうち悪逆ほど悪くないものを合わせた。

漢代の不道事件

漢の律で不道について記したものは見付かっていないが、『漢書』には不道を罪として裁かれた事件が多い。年代的な初例は漢の武帝の代(前141年 - 前87年)である[1]廷尉杜周がしきりと官吏の疑獄事件を追及したとき、証言のために出頭するよう命じられた人の中に、拷問で証言を強いられるのを恐れて逃げ隠れするものが多かった。彼らは十数年後に見付かると、多くが不道の罪とされたという[2]。彼らにあてられた刑はわからない。また、庶民の男が自らを死んだはずの皇太子だと詐ったことが、不道とみなされ死刑になった。

宣帝の時代(紀元前74年 - 紀元前49年)には、 互いに推薦し合って顕職に就こうとした楊興賈捐之が不道とされ、賈捐之が死刑、楊興は減刑されて髠鉗城旦(懲役)となった[3]

元帝が即位(前49年)して間もないとき、前将軍蕭望之が大臣を非難し外戚を抑制しようとしたことが、皇帝を誣(あざむ)いて不道である、と告発され、取り調べを受けた[4]

成帝の代(紀元前19年から紀元前14年)には、かつて西域で武功を立てた陳湯が、衆を惑わし不道だと弾劾される事件が起こった。黒竜の出現を皇帝の微行のせいだと言い、中止された陵の造営が再開されて人々に移住が命じられると予想して衆を惑わしたことが、それぞれ大不敬と不道とされた[5]。廷尉と皇帝の判断により、衆を惑わした点について無罪となった[5]

陳湯の事件では廷尉が「不道に正法なし。犯すところの劇易(激しいかそうでないか)をもって罪となす」と論じた[5]。具体的にどのような行為が不道にあたり、どのような刑になるか定まっていなかったようである[6]。判例ができるにつれて、棄市を量刑とし、政治的理由で「悪」とされた発言・行動が不道の名で裁かれるようになった。

  • 多数の人 - 廷尉の召喚に従わず逃げ隠れる。
  • 丁義 - 楽成侯。五利侯のことを言う。棄市し、国を除く[7]
  • 成方遂 - 皇太子を詐称。誣罔不道。要斬(腰斬)、棄市。[8]
  • 賈捐之 - 互いに推薦しあうことを約し、楊興を推薦する奏上をする。 棄市。
  • 楊興 - 互いに推薦しあうことを約し、賈捐之に推薦される。死一等を免じ髠鉗城旦。
  • 蕭望之 - 大臣を非難し外戚を抑えるように誣く。官職を罷免。
  • 陳湯 - 陵への移住を予測し、衆を惑わす。無罪。

唐・日本の不道

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI