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世戸口政長

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時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦2年(1656年)[1]
死没 不詳
別名 通称:作十郎[1]
 
世戸口 政長
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦2年(1656年)[1]
死没 不詳
別名 通称:作十郎[1]
主君 立花鑑虎→鑑任→貞俶
藩 筑後柳河藩
氏族 大蔵氏族原田氏流世戸口氏[1][2]
父母 父:世戸口政春[1]、母:利光彦兵衛の娘[1]
兄弟 十兵衛、政長
妻 安武惣左衛門の娘[1]
子 政矩[1]、椎崎義乗[1]、女(天野庄左衛門室)[1]
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世戸口 政長(せとぐち まさなが)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。立花氏家臣で筑後柳河藩士。立花鑑虎、鑑任、貞俶の3代に仕える。父は世戸口政春[1]。

明暦2年(1656年)、筑後柳河藩士・世戸口政春の次男として生まれる[1]。母は利光彦兵衛の娘[1]。

寛文12年(1672年)、17歳で3代藩主・立花鑑虎の小姓として召し出されて並の扶持を与えられ、元服して中奥御番を務める[1]。その後、御広間御番を務めて、近習や外様と共に江戸と柳河の往来を約20年に渡って務めたが、その約20年の内に御鳥見役も2年務めている[1]。

天和3年(1683年)、嫡男の政矩が生まれる[1]。

元禄10年(1697年)、政長の病により、15歳になった嫡男・政矩が御広間代番を命じられる[1]。

正徳3年(1713年)に小廻り役と御鳥見加役に任じられたが、享保3年(1718年)に小廻り役を免じられ、享保7年(1722年)8月には御鳥見加役も免じられて再び御広間御番に任じられている[1]。

享保8年(1723年)、各藩士たちに対して系譜や文書類の提出が命じられ、政長も自身の経歴等を記した覚書を提出した[1]。

没年は不明。

系譜

脚注

参考文献

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