中井太一郎
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庄屋の子として伯耆国久米郡中河原村[3](鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現倉吉市中河原)に生まれる。9歳の頃に寺子屋で農業を学ぶ。後に耕地を所有し、1858年(安政5年)に鳥取藩が執行した地方改革により、中庄屋に昇格した。
明治維新後、最高位の戸長及び地券の取調役となり、全国の稲作を巡回し農地改革の講演を行う。耕地は実子の中井益蔵に譲る。1884年(明治17年)、田植えの際、苗の間隔を一定にするため、田に目印をつけるための農具である田植え定規を発明。1892年(明治25年)には水田の除草器械を考案し特許を取得するなど、日本における農地改革や普及に貢献した。なお、この器械は後に「太一車」と呼ばれ、全国に名を轟かせた。
その後、器械の発明だけでなく法律の制定や、農業改良に関する著書の刊行にも携わった。
著書
栄典
- 1894年(明治27年) - 緑綬褒章