中井川浩 From Wikipedia, the free encyclopedia 生年月日 1900年(明治33年)9月23日出生地 日本茨城県那珂郡木崎村(現在の那珂市)没年月日 (1949-11-03) 1949年11月3日(49歳没)出身校 日本大学専門部中退 日本の政治家中井川浩なかいがわ ひろし 生年月日 1900年(明治33年)9月23日出生地 日本茨城県那珂郡木崎村(現在の那珂市)没年月日 (1949-11-03) 1949年11月3日(49歳没)出身校 日本大学専門部中退前職 新聞記者拓務省・鉄道省嘱託所属政党 (立憲民政党→)(翼賛議員同盟→)(翼賛政治会→)大日本政治会 衆議院議員選挙区 茨城県第2区当選回数 4回在任期間 1932年2月20日 - 1945年12月18日テンプレートを表示中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月23日[1] – 1949年(昭和24年)11月3日[2])は、衆議院議員(立憲民政党)。厚生政務次官、陸軍参与官。ジャーナリスト。 茨城県に警察官の息子として生まれる。父の配属の都合で東京・茨城を転々としながら、水戸中学校に入学するも教師を批判したことで放校処分となり、日本中学校を卒業。日本大学専門部を中退し、やまと新聞に入社し水戸支局に入り、1922年(大正11年)に報知新聞へ移って土浦支局長になった[3]。のち茨城民報を創刊するが、茨城民報はいはらき新聞に吸収合併され、そのままいはらき新聞社の取締役を務めた[4]。 土浦町会議員、茨城県会議員に当選する一方で、茨城県出身の民政党代議士原脩次郎が拓務大臣に就任すると拓務省嘱託となり、ついで原が鉄道大臣に就任すると鉄道省嘱託となった[5]。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後4回連続当選を果たした。岡田内閣で川崎卓吉文部大臣の秘書官を務め、広田内閣で川崎が商工大臣になると商工大臣秘書官に転じた。平沼内閣で陸軍参与官に就任し、小磯内閣で厚生政務次官に就任した。戦後、公職追放となった[6]。 その他、茨城中学校理事[5]、霞浦農科大学理事長を務めた。 脚注 ↑ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年(昭和12年)、12頁。 ↑ 『政治家人名事典』 ↑ 『中井川浩の横顔』 ↑ 『時の人』 1 2 『衆議院要覧』 ↑ 公職追放の該当事項は「推薦議員勅任文官陸軍政務官」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、405頁。NDLJP:1276156。 ) 参考文献 『時の人』イハラキ時事社、1939年。 『衆議院要覧(乙)昭和十七年十一月』衆議院事務局、1942年。 『中井川浩の横顔』。 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。 Related Articles