1892年(明治25年)7月1日、京都市上京区に生まれる。京都市立絵画専門学校[注釈 1]に進み、竹内栖鳳らから日本画を学ぶ。2年生の時に文展の初入選を果たしたが、教師の目を通さずに出品したことから逆に叱責を受けた。翌年、教師に提出したものの、修正の指導に納得できず、それ以降は官展公募展を問わず出品することはなかった[4]。
岩手県の旧制岩手県立盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高等学校)から図画教員の勧誘がある。一度は固辞したものの、盛岡から訪ねて来た使いの者の「雪景色も、また良うござんすよ」の一言で赴任を決めた。1929年、37歳で盛岡中学校に着任。生徒たちに自由に創作させ、その個性を見守る指導方針を採った[4]。京都在住時には六代目歌川豊国に絵の手ほどきをし[1]、盛岡での教え子には福田隆や村田三樹二郎[注釈 2]らがいた[2]。教職の傍ら、岩手県産木材を使った郷土玩具の制作も行った。戦争の激化により授業が減少したことから、盛岡中学を退職[4]。戦後も盛岡に暮らし、岩手県の風俗や方言を県外に伝えることを兼ねて、「盛岡方言絵はがき集」を製作。滋賀県の民族絵画である「大津絵」に着想を得て、「南部絵」の制作を志した。一点ずつ筆で描く方法では量産が困難であったため、「染絵」の技法を採り入れた。1956年には作品を通じて岩手の民芸を全国に伝えた功績から、第9回岩手日報文化賞を受賞[6]。その年に京都に戻り、工芸喫茶「わびすけ」を開店。亡くなる直前まで染絵や絵はがきを中心とした創作活動を行った[4]。
1970年(昭和45年)8月24日[3]、死去。享年78。27年間暮らした盛岡では飄々とした人柄で親しまれ、1974年の命日には教え子や友人らにより、盛岡市北山の法泉寺に画碑が建立された[7]。生誕130年にあたる2022年には、盛岡市先人記念館で企画展が開催された[2]。