中国塩政史
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中国塩政史(ちゅうごくえんせいし)
唐代以前の塩政
中国最古の王朝夏朝は、先述の洛陽の北西にある運城市に都城を築いた。この地は、塩を産出する解池を保有し、黄河に囲まれたことから水運と防衛にも適していたため、春秋戦国時代の晋や戦国時代の魏の首都ともされた。
漢代には、昭帝の始元6年(紀元前81年)に「塩鉄会議」が開かれ、御史大夫の桑弘羊が、塩鉄の専売などの経済政策を展開した。このことは『塩鉄論』に見ることが出来る。その後唐代まで、専売も何度か施行されたが、概ね施行されたのは収税法であり、製塩業者に課税するのが普通であった。
専売制を実行に移したのは塩鉄使の第五琦であり、乾元元年(758年)に塩法を改革した。その後、劉晏が塩鉄使となり、後世に多大な影響を与えた「劉晏の塩法」を始めた。その重点は、専売塩を塩商に販売し塩商の活動に任せるというもので、塩鉄使の管轄区域内では塩の運搬と販売を自由に行なわせる、というものである。
塩は生活必需品であり、代替品が存在しないため、いかに高額であろうとも買わずに済ます事ができない性質を持つ。それに加え、富裕層も貧窮層も塩の必要性には差が無いため、課税の逆進性が大きい。政府は財政難の際には、専売塩の価格を吊り上げという安易な手段の増税に走ったが、これは庶民を大いに苦しめる事となった。そうなると、専売塩より安く塩を密売して巨額の利益を上げる「塩賊」も出現した。政府は塩の密売に厳罰を課したが、取り締まりを強化するにも予算が必要であり、その予算を確保する為にさらに専売塩を値上げし、ますます塩賊が儲けるという悪循環に陥った。こうした塩賊の中でも、唐を崩壊させる「黄巣の乱」を起こした黄巣は有名である。
宋元時代の塩政
明代の塩政
明代の塩法も、宋・元以来の塩制を継承しており、官売法として戸口食塩法が用いられた。やはり、塩商人は、塩引の提示によって塩の支給を受け、それを決められた販塩地で販売するという形式が確立されていた。