中山忠直
日本の詩人
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経歴
石川県金沢市に生まれ[2]、幼い頃から宇宙に興味を寄せ、自然科学者を夢みた[3]。1910年のハレー彗星の接近を契機に、詩作に没頭する[4]。
石川県立金沢第二中学校(後の石川県立金沢錦丘中学校・高等学校の前身)から[5]、上京して早稲田大学商科に学び、中村進午、北昤吉の薫陶を受ける[4]。卒業した後、服部時計店の店員、総合雑誌『中外』編集者などを経て、『日本及日本人』や『報知新聞』の常連寄稿者となった[2]。
数万年後、人類が滅び去った後の地球を描いた「地球を弔う」や、火星への憧れを語る「未来への遺言」など、独自の詩作を行なうとともに、日本画家・野澤洋如の下で画業にも従った[3]。
正規の医師の資格は持っていなかったが、1927年に出版した『漢方医学の新研究』が大ベストセラーとなり、西洋医学の導入で衰退しつつあった漢方医学の復興の契機となった[2]。「中山研究所」を設立し、漢方薬の販売や、鍼灸の施術を行なった[3]。また、この時期には、民族主義的主張を展開した著作も発表する。
1943年、当時日本の占領下で昭南島と呼ばれていたシンガポールへ司政官として招聘されたが、赴任前に脳溢血に倒れ、以降は不自由な体を抱えることとなったが、第二次世界大戦後も、晩年まで言論活動を続けた[2][3]。墓所は多磨霊園[6]。
後には、漢方医学界への貢献が大きかったとする再評価の動きも起こっているが、極右思想家としての活動もあったことも絡み、「貢献した漢方界からも意識的に無視される」状況にある[2]。