中川吉之助
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事件
乳を飲ませず飢え死にさせたり[7]、壁に叩きつける、熱湯を飲ます、絞殺、生き埋めなどといった方法で少なくとも4人の貰い子を次々と殺害した[8][5]。篠田鉱造の明治百話にでは殺害した嬰児の遺体は東京府芝区白金志田町(現:東京都港区白金)のエノキの木の下に埋め遺棄し、その後に白金志田町のエノキの下から嬰児の白骨死体3体が発見されたと記されているが、当時の報道によればそれぞれ別の場所に遺棄したり親元へ返したりしたと報道されている[8][5]。吉之助は銀座の理髪店で逮捕され[8]、被害者を壁に叩きつけて殺害した事について「気持ちが悪うございました」と申し立てた[8]。1887年12月3日に1885年5月7日から9月17日にかけて理髪師の林田仙太郎の次男仙吉(2歳)を含め4人を殺害した罪で死刑判決を言い渡され[8][4][2]、1888年3月29日に死刑を執行された(35歳没)[4][2]。
余罪
1886年3月18日夜、芝区田町の下駄屋・高木おあさ宅へ強盗が侵入し、片眼の姪のおせん(27歳)が首を切り落とされ、20円を奪われるという強盗殺人事件が発生、おせんを殺害した目的は陵辱目的ではないかという説も上がったが、そのようには見えず、首を切断したのがおかしいと高輪警察署でも議論された、その後大円寺の垣根傍で血まみれの大出刃が発見され、証拠品として押収された。ここで吉之助は田中方から借金をしており、借金を返さなかったことから喧嘩をしてそれ以降住来していないが、金銭があるということを知っているのは吉之助しかおらず、おせんに何かしらの恨みを抱いて惨殺したのではないかと推定された、しかしこの強盗殺人事件では有罪判決を受けておらず、真犯人も逮捕されておらず、未解決となっている[6][9][5]。また吉之助は5月7日から9月17日にかけて犯した4件の殺人事件によって死刑判決を受けているが、明治19年4月9日の読売新聞によれば、明治18年4月に生まれた乳児の殺害が報道されている[5]。
犠牲者一覧
確定犠牲者
| 名前 | 親 | 年齢 | 犯行日 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 氏名不詳 | 矢田部安太郎 | 4ヶ月 | 1885年5月7日 | 麻布本村町へ在住中、神奈川県横浜市寿町在住の人力車夫・矢田部安太郎から生後4ヶ月の息子を受け取り、間もなく手拭で絞殺[5]。 |
| 鈴木おかめ | 鈴木長久 | 3歳 | 1885年7月 | 荏原郡白金村(現:港区)在住の植木屋・鈴木長久から5円と衣服料1円50銭と共に三女おかめを受け取り、翌日に自宅前のイチョウの木の下を90cmほど掘って、その中におかめを生き埋めにして殺害[5]。 |
| 瀧口おはな | 瀧口およし | 12歳 | 1885年9月8日 | 芝区宮村町へ転居していた頃、9月8日に八丁堀(現:中央区)在住の瀧口およしから娘おはなを受け取り、自宅の台所の上げ板(床下収納庫)を取り、そこにある糠味噌桶の下を掘って、おはなをその場に生き埋めにして殺害[5]。 |
| 林田仙吉 | 林田仙太郎 | 2歳 | 1885年9月17日 | 京橋区尾張町(現:中央区銀座)在住の理髪師・林田仙太郎から2円50銭と共に次男仙吉を受け取り、その後やかんで熱湯を沸かして、仙吉の口に注ぎ込んで殺害、その後示談の上仙太郎に遺体を返した[5]。 |
余罪による犠牲者
| 名前 | 親 | 年齢 | 犯行日 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 氏名不詳 | 石井おみね | 1885年4月生まれ | 1885年4日 | 中麻布田島町の在住中、芝区横浜新町在住の石井おすんの娘おみねから男児を受け取り、砂利に埋めて殺害したとされる[5]。 |
| 田中おせん[注 1] | - | 27歳 | 1886年3月18日 | 18日夜、芝区田町五丁目在住の下駄屋・高木おあさ宅へ侵入し、20円を奪い、片眼の姪の田中おせんの首を大出刃で切り落として逃走、この事件では有罪判決を受けず、本件は真犯人が捕まらず未解決となっている[5][6][9]。 |
生存者
| 名前 | 親 | 年齢 | 犯行日 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 氏名不詳 | 氏名不詳 | 3ヶ月 | 木挽町の歯磨屋の娘から養育費15円と共に3ヶ月の乳児を受け取ったが、1886年3月18日の強盗殺人容疑で逮捕された際に保護[5]。 | |
| 今枝おゑい | 今枝栄蔵 | 2歳 | 赤坂新町在住の今枝栄蔵から養育費10円と共に2歳の孫おゑいを受け取ったが、1886年3月18日の強盗殺人容疑で逮捕された際に保護[5]。 |