中川泉三
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中川泉三は、1869年(明治2年)4月14日に近江国坂田郡大野木村(現滋賀県米原市大野木)で宮川藩士中川洸平次の長男として生まれた[1][2]。12歳の時に父が死去し、母の手一つで育てられ、母からは常に「友に劣るな、寡婦の子とそしりを受けるな。」と叱咤激励された[2]。小学高等科卒業後、家業の農業に従事する傍ら、独学で学問を修め母校の代用教員まで務めた[2]。
特に漢詩文に興味を持ち小野湖山・土屋鳳州らから添削指導を受けた[2]。1889年(明治22年)には漢詩集「賤ヶ岳懐古集」を著わし、題字を小野湖山、序文を杉浦重文が記す[2]など若年ながら当時一流の文筆家と交わっていた。高い文章力と歴史調査力を買われ、1905年(明治38年)「柏原村誌」編纂の依頼を受け完成させ、1907年(明治40年)「近江坂田郡志」編纂の常務委員から編纂責任者となり1913年(大正2年)に完成させると、高い学術性を評価され、滋賀県内の多くの地方史編纂に携わることになった[1]。
その後、「近江蒲生郡志」・「近江栗太郡志」・「愛知郡志」・「近江日野町志」の編纂を行い、また「近江の聖蹟」・「曽我氏家記」・「石之長者木内石亭全集」等の著作も発表した。精力的に編纂・執筆活動を行うと共に歴史研究を行い、講演会を精力的に行った。晩年は章斉と号し、徳富蘇峰らと交遊し詩歌を楽しみ、人材の育成にも務めた。1939年(昭和14年)12月27日「彦根市史」編纂の途上、病没した[1]。
郡志編纂を通じて、神社・寺院の由緒を明らかにし、又歴史の中に埋もれた人物の調査は再考される機会になり、また大化の改新によって行われた条里制の研究は、史学界の中で大いに評価された[2]。
