中御門経之
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
坊城俊明の五男として生まれ、中御門資文の養嗣子となる。
安政5年(1858年)に通商条約勅許問題が起こると、88人の反対グループ(廷臣八十八卿)の一人となった。文久3年(1863年)、孝明天皇の石清水八幡宮行幸を共にしている。しかし、その後は岩倉具視と手を結んで討幕派公卿の一人となり、慶応2年(1866年)には佐幕派であった関白の二条斉敬と中川宮朝彦親王を弾劾した。ところが、これが親王を厚く信任していた孝明天皇の怒りを買うこととなり、閉門処分に処せられた。同年末、孝明天皇が崩御し、明治天皇が践祚された後に罪を許されて宮中に復帰する。
その後は討幕の密勅作成などに参加し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古と共に議定に任じられた。
翌明治元年1月(1868年)、会計事務総督を兼ね、2月に会計事務局督に転じ、閏4月には権中納言となり、ついで会計官出仕、8月に同知事となった。
明治2年2月(1869年)、造幣局掛等を歴任し、5月に内廷職知事に任じられ、7月に留守長官に転じた。9月には維新の功により賞典禄1,500石を永世下賜され、11月に大納言に任じられた。しかし明治3年12月(1871年2月)、病により留守長官を辞し、麝香間祗候に任じられた。その後は華族会館創設の計画協議などに当たった。
新暦1891年(明治24年)8月25日、病が重くなったため、特旨をもって従一位に叙せられた。同年8月27日死去。享年71(満70歳没)。