1917年、岐阜県大野郡高山町上三之町(現・高山市)に生まれる。東尋常小学校を卒業後、特進で岐阜県師範学校(現・岐阜大学教育学部)に入学。このとき高山から同時に入学したのが山本弘・下通進平だった[2]。
1937年(昭和12年)、岐阜県師範学校を卒業し、音楽教諭となる。高山市立西小学校在勤中、『国民学校音楽教育』(1942年)、『音楽教育基本指導』(1948年)、『基底カリキュラム 音楽編』(1950年)といった音楽教育指導書を執筆し、1954年には『音楽のおけいこ』を上梓する[2]。山本弘らと「ふしづくり」による音楽教育を、飛騨地方において実践した[3][2]。「ふしづくりの教育」は、中村が理論を山本らに提供し、山本が教育現場で実践するとともに、中村は教員に対して指導をおこなう形であった[2]。
1962年(昭和37年)、全国指導主事会議で岐阜県の『音楽能力表』とそれに準じた『能力テスト(ソノノート)』を山本弘と共に紹介する。1977年(昭和52年)、文部大臣表彰を受ける。翌年、教職を退く。
退職後は、南友コーラス、教職員退職者で作るコーラス翠陽を主宰するとともに、高山市民合唱団、高山少年少女合唱団、高山市民吹奏楽団の設立運営に関与した[1]。