中村裕二 From Wikipedia, the free encyclopedia 国籍 日本出身地 福岡県飯塚市生年月日 1949年没年月日 1979年10月20日(満30歳没)中村 裕二基本情報国籍 日本出身地 福岡県飯塚市生年月日 1949年没年月日 1979年10月20日(満30歳没)身長体重 175 cm73 kg選手情報投球・打席 右投右打ポジション 捕手経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) 選手歴 柳川商業高等学校 法政大学 住友金属 コーチ歴 住友金属 この表について この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。 ■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 中村 裕二(なかむら ゆうじ、1949年 - 1979年10月20日)は、福岡県飯塚市出身の社会人野球選手(捕手)。 1967年、柳川商業高等学校(現:柳川高等学校)3年のときのプロ野球ドラフト会議で東京オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)から7位指名されたが、入団を拒否。 高校卒業後は、法政大学に進学し東京六大学野球リーグに加盟している野球部に入部。同期の横山晴久、1年下の池田信夫らとバッテリーを組み、1969年秋季リーグからの4連覇に貢献。1971年の全日本大学野球選手権大会では決勝で亜大の山本和行投手に抑えられ、準優勝にとどまる。ベストナイン2回選出。横山以外の大学同期に古賀正明、藤村正美らがいた。 大学卒業後は、社会人野球の住友金属に入団。捕手としてはインサイドワークを高く評価され、打者としても常に3割台の成績を残した。1972年には、法大の先輩エース山中正竹を擁し都市対抗野球に出場。準決勝に進むが三菱自動車川崎に敗退[1]。同年は第20回アマチュア野球世界選手権日本代表となり、社会人ベストナインにも選ばれた。 1973年には、アジア野球選手権大会に出場。同年秋にはプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名されたが、この時も入団を拒否した。1974年に来日したキューバ代表と社会人野球選抜の交流試合にも出場。1975年、1976年には三塁手として起用される[1]。1977年には捕手に戻り、森繁和とバッテリーを組み、日本選手権に出場。決勝で電電四国を降し初優勝。同年は2度目の社会人ベストナインに選出された。 住友金属ではコーチも兼任し、将来の監督候補と目されていたが、1979年に入り体に変調を来たす。同年夏の都市対抗野球において松下電器(現:パナソニック)の補強選手として出場[1]後、和歌山労災病院に入院して検査を受けた結果、末期の胃癌であることが判明した。妻子とともに自身の郷里・飯塚市に移り、同地で死去した。30歳の若さだった。 脚注 1 2 3 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 表話編歴東京オリオンズ - 1967年ドラフト指名選手指名選手 1位:村田兆治 2位:岡田光雄(入団拒否) 3位:島谷金二(入団拒否) 4位:榊親一 5位:藤村正美(入団拒否) 6位:吉岡邦広 7位:中村裕二(入団拒否) 8位:金子勝美(入団拒否) 9位:堀田芳信 10位:吉岡悟 11位:池田和雄(入団拒否) 12位:西脇正彦(入団拒否) 表話編歴読売ジャイアンツ - 1973年ドラフト指名選手指名選手 1位:小林秀一(入団拒否) 2位:黒坂幸夫(入団拒否) 3位:中村裕二(入団拒否) 4位:迫丸金次郎 5位:尾西和夫(入団拒否) 6位:新谷祐二 7位:金島正彦 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。表示編集 Related Articles