1973年の第一次石油危機は、韓国をふくむ西側諸国の経済に大きな影響を与えた[1][3]。原油価格の釣り上げにより資本力を手にしたペルシャ湾岸諸国は社会資本の整備に取り組みはじめ、エネルギー不足にともなう不況と失業問題に苦しんでいた韓国は中東に労働力を輸出することによって外貨を獲得しようとした[3]。当時の韓国では国内産業が十分に発達しておらず、朝鮮戦争後のベビーブームを背景に労働力過剰が生じており、政府は海外移民を1960年代より奨励していた[4]。
韓国の建設産業が中東に進出したのは、1973年に三煥企業(朝鮮語版)がサウジアラビアにてアル・ウラー - カイバー(英語版)間の高速道路工事を受注して以降である[3]。その後、韓国建設業者の中東進出は本格化した。1975年に現代建設が受注したバーレーンにおける造船所工事は、単一建設工事として受注額が1億ドルを超えるはじめての例であった。この年の12月には海外建設促進法が制定され、海外建設業の免許制度の創設および金融・財政面での支援がはじまった。1981年には中東建設ブームを背景とした海外建設工事受注額は137億ドルに達し、海外で働く労働者数は最大で172,540人を数えた[5]。1976年に現代建設が受注したジュバイル工業港(英語版)建設工事は当時の韓国企業が受注した案件の中でも規模が大きいものであり、その受注額は当時の韓国の国家予算のおよそ4分の1に達した[1]。同工事においては労働条件が周辺他者よりも劣悪であることを背景とした暴動(3.13暴動)も発生した[4]。
しかし、労働資源の払底もあり湾岸諸国と韓国の賃金格差が次第に埋まっていったこと、インド・パキスタン・フィリピンあるいはイエメンといった国家がさらに廉価な労働力供給源として機能しはじめたこと[3]、サウジアラビアのサウダイゼーションのように、湾岸諸国における自国産業の保護が進んだこと[2][3]、国内業者間の過当競争とダンピングにより赤字工事が増えたこと、原油価格の下落により建設工事の需要そのものが減少したことといった複数要因が重なり[5]、1982年をピークとして建設ブームは終息していった[4]。
中東建設ブームは韓国の外貨獲得に寄与したほか、同国の建設企業の施工能力を底上げした[1]。財閥系企業をはじめとする国内の大規模建設業者は中東建設ブームでの技術・資本蓄積を経て成長し[6]、1970年代中葉よりはじまる国内のアパートブームを牽引した[7]。