中田慶雄
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1930年(昭和5年)平屋村野添(現在の京都府南丹市美山町野添)に生まれる。平屋国民学校高等科(のちの平屋小学校)を卒業後、第二次世界大戦敗戦直前の1945年(昭和20年)5月に満蒙開拓青少年義勇軍として中国(旧満州)に渡る[1]。敗戦後、ソビエト連邦軍に投降して捕虜となり延吉監獄(現在の延辺芸術劇場)で暮らす[3]。
中国人農家に助けられて収容所を脱出。日本には帰国せず、中国東北部(旧満州)の石油化学工場などで働く。1953年(昭和28年)から、中国人民大学と復旦大学で経済学と中国語を学んだ[1]。
1958年(昭和33年)に日本へ帰国。日中の経済交流事業の発展に尽力しはじめる。1964年(昭和39年)に日本国際貿易促進協会の事務局に入り、1994年(平成6年)に理事長、のちに副会長に就任した。吉林省や上海市など中国各地の経済顧問を30余り兼任した。2003年(平成15年)に中国日本友好協会から「中日友好の使者」、2006年(平成18年)に中国国際貿易促進委員会から「名誉会員」の称号を授与された。また、広州交易会からは「第百回輝かしい傑出した貢献」の栄誉賞が贈られている[2]。
2011年(平成23年)5月1日、脳腫瘍のため80歳で病死。中田は、亡くなるまでに382回中国を訪問し、日中の経済・貿易と友好交流を図った[4]。