驩兜
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
驩兜は堯(ぎょう)の息子である丹朱(たんしゅ)のことであり、三苗人の論戚誼(ろんせきぎ、三苗)と組んで堯に対して反乱を企てたとされ、それが四罪と目される由来となっている。この闘いに敗れたのち、丹朱の子孫たちは南方に落ちのび讙頭国を建てたとされ、その国の様子や位置は『山海経』などに記されている(『史記』舜本紀には、驩兜の子孫たちが南の方角にすむ「南蛮」たちになったと記されている[3])。
驩兜・讙頭・鴅吺・讙朱・丹朱が同一の存在であるとの考察は古くから『読書偶識』(巻2)や郭璞による『山海経』の「讙頭」につけられた注などに存在する[4]。しかし、『山海経』には讙頭は鯀の孫であるという文章も見られる[5]。また、『山海経』の海内南経には「帝丹朱」の墓[6]、海内北経には「帝丹朱」の台[7]というものが記されており、中国神話学者の袁珂はこれを驩兜の墓や台であるとしている[4]。
『史記』「五帝本紀」などでは堯に対して放斉が丹朱を、驩兜(丹朱)が共工を紹介して登場しているが、両者ともに堯からしりぞけられている。