郭璞
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寒門の家に生まれ、訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から『青嚢中書』という書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、いにしえの京房や管輅をも凌ぐほどであったという。
八王の乱により中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地が遠からず異民族に蹂躙されることを予見した。そこで親類・友人たち数十家とともに江南に避難した。史書によると、江南までの道中、様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという。
江南に来た郭璞は、その後、司馬睿(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍となり、その卜筮の術によって大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見し、司馬睿の寵愛も受けるに至った。
東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子司馬紹(後の明帝)からは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった温嶠・庾亮らと同等の待遇を受けた。
太寧2年(324年)、王敦が再び反乱を企て、郭璞にその成否を占わせたところ「成る無し」の結果がでた。王敦はかねてから郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていたので、占いの結果に激怒し郭璞を処刑した。享年49。王敦の乱が平定されると、弘農郡太守を追贈され、子の郭驁が父の後を継いで、官位は臨賀郡太守に至った。
