丹波恒夫
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1901年(明治34年)立教学院東京英語専修学校(現・立教大学)に入学[2][5][6] 。その後中退し、日露戦争に出兵[2]。
その後、郷里の山形に戻り、酒田郵便局や新庄中学校などに勤務する[2]。
1907年(明治40年)に米国に留学し、英語や経済学などを学び、後に百貨店に勤めて、欧米の絹布・雑貨などの研究を進め、日本の絹織物市場調査を行う[2]。
この米国にいた20代後半の頃に、浮世絵に目覚めることになるが、ボストンで浮世絵を多数所蔵する美術館に通い続けて、独特の美術を観る眼を養った[3]。
6年に渡る米国滞在の後[3]、1913年(大正2年)に帰国すると、同年、横浜の大和商会に入社し、数回にわたって世界各国を訪問して市場調査を行う[2]。
1924年(大正13年)、独立して横浜に丹波商会を設立して社長に就き、日本の輸出貿易の振興に貢献していく[2][6]。
太平洋戦争では空襲により社屋を失う被害にあうが、戦後になると、連合軍総司令部(GHQ)繊維部顧問などを務める傍ら、会社を再建し、豊富な学識経験を活かして、戦後における日本の貿易の再興に尽力した[2]。丹波商会のほかにも、テキスタイルコンサルタント株式会社を設け、東京丸の内の丸ビルに事務所を置いた[6]。
1958年(昭和33年)、第7回横浜文化賞(昭和33年度)を受賞(分野:文化)する[4]。
日本浮世絵協会(第3次)創立以来、理事を勤めたほか[1]、藤山愛一郎(第81-82代外務大臣)の後援会会長や[7]、母校である立教大学同窓会(現・校友会)の顧問を務めた[5]。
90歳となった高齢でも丹波商会の社長を現役で務め、社会福祉の方面でも貢献した[1]。