『信長公記』によれば丹羽兵蔵は、尾張国清洲にいた那古野弥五郎の家来であったとされる。永禄2年(1559年)2月、斎藤道三が子の斎藤義龍によって殺害された直後、斎藤義龍と織田信長の関係が悪化する中で、義龍は信長暗殺のため刺客を差し向けたという。
兵蔵は信長の上洛に随行して都へ向かう途中、志那(現在の滋賀県草津市)の渡しにおいて、30人ほどの武士の一団と同船することとなった。彼らから生国を尋ねられた兵蔵は機転を利かせて三河国の者であると名乗り、さらに尾張国を通過した際に人々が信長を恐れ畏れていた様子を語ったところ、相手は油断したのか「信長の命は間もなく尽きるであろう」と漏らしたという。
不審を抱いた兵蔵は近くの宿に泊まり、宿の子から、彼らが美濃国からの命を受けて信長を討つため上洛している武士であることを聞き出した。兵蔵は彼らの行動を追跡して京での宿所を突き止め、その足で信長の宿所に赴き急を知らせた。
兵蔵の報告を受けた信長は金森長近・蜂屋頼隆らと相談し、夜明けに刺客の宿へ乗り込ませ、「貴殿らが上洛したことはすでに信長も承知している。信長公に挨拶申し上げよ」と告げたため、刺客一同は仰天したという。翌日、刺客たちは小川表に出向き、信長と対面した。信長は彼らに対し、「自分を討つために上洛したとは、蟷螂が斧に向かうが如く、笑止の至りである」と語ったとされる。
この一件により、信長は暗殺を未然に防がれた。なお、刺客の動向を伝えた宿の子(京わらべ)にも、信長から多くの恩賞が与えられたと伝えられる。
本件の年代については、『信長公記』では永禄2年とされる一方、『織田軍記』では永禄4年とし、また桶狭間の戦い(永禄3年)の翌年とする説もある。『信長公記』では信長の上洛の月日を記さないが、『言継卿記』に永禄2年2月に信長が足利義輝に謁見している記録が残る。